藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

行政の生まれ変わり

*[ウェブ進化論]お役所からの脱却。
煩雑な行政手続きは日本企業の競争力の足かせだ。
まったく。
日本はいろんな制度が緻密に整備されているから、あらゆる秩序や品質が保たれている代わりに「柔軟性」は相当低い。
もはや住民票とか戸籍とかの役割とか、各種申請とか届出とか、規制とか許認可とかが錯綜して混乱している。 
自分は行政の手続きは全てシステム化できる、と思っているが、「行政の世界にいる人たち」にはそれはご法度のようだ。
毎年変わる法律と制度を「人がハンドリングすること」こそ行政の役割のような風潮があるが、それは大きな誤解だし、実にもったいない。
人は「(情緒的な)判断を要する難しいこと」をするべきで「手続きの流れ」を担当するべきではない。
しかもよく間違うし。
日本は世界のビジネス環境調査で39位に甘んじているそうだが、それこそ一周回って「大改造」する時期に来ているのではないだろうか。
 
今はまだ役所の窓口で「住民票とか助成金などについて言い合う風景」は無くならないが、ほとんどは自動化されるべきだ。
人はつい「分かりやすくて簡単な仕事」を受け入れてしまう。
ともすればそれを機械に任せることに抵抗したりもする。
 
そうした観点ではなく。
行政に"いかに創造性を持たせるか"、というのはこれからのテーマではないだろうか。
「単なる事務方」ではない行政のあり方を期待したい。
結局は政治家の問題なのかもしれないが。
 
 
行政手続きデジタル化、新興勢「ガブテック」が後押し
2019年7月2日 4:30
あらゆる行政手続きを原則として電子申請に統一する「デジタルファースト法」が成立し、行政機関がようやくデジタル化へ本格的に取り組み始めた。これまで行政手続きなどの「役所仕事」は紙を使った手作業が大半を占め、産業界と比べて効率化が大きく遅れてきた。行政機関(ガバメント)の取り組みを後押しするのがスタートアップ企業の「ガブテック」だ。

書類の8~9割に不備

神奈川県鎌倉市の市役所では春の引っ越しシーズンになっても、転出入の届け出窓口に長い行列ができることは少ない。その秘密は本庁舎1階の入り口近くに置かれたタブレット端末にある。来庁者はスマートフォンタブレットにかざし、プリンターから出てきた書類を手に窓口へ向かう。
転入者はあらかじめ自宅でスマホに住所や氏名など必要な情報を入力しておく。その方法も「世帯に養育中の子どもがいるか」「市内の保育施設に入所を希望するか」など、最大で29の質問に答えれば完了する。
この仕組みは行政手続き支援スタートアップ、グラファー(東京・渋谷)が提供するサービスだ。一般的に住民が役所の窓口へ提出する書類の8~9割は記入の不備があり、再提出や職員による修正が必要とされる。これが窓口前の行列を長くする一因だ。市民がスマホとの「対話方式」で事前に作っておくことで、手続きが円滑に進む。
鎌倉市は専用サイトで手続きに必要な書類や提出窓口を公開していたが、分かりにくかった。グラファーのシステムでは5分程度で書類が完成し、どの窓口に出せばいいかも表示される。5月に市内で転居した男性デザイナー(48)は「手続きが仕事の合間にすぐ済み、助かった」と喜ぶ。
鎌倉市役所が窓口で受け付ける申請や届け出などは1カ月に1000件を超える。行政経営課の橋本怜子担当課長は「書類の処理を効率化すれば、業務時間を軽減できる効果は大きい」と話す。職員の残業が減れば経費削減にもつながる。
グラファーのサイトは引っ越し以外に結婚や出生、氏名変更など8つの届け出の準備に対応し、4月だけで1500人以上のアクセスがあった。3月から実証実験として転出入に必要な一部書類の自動作成を始めており、今後は対応分野を増やしていく方針だ。
自治体がシステムを運用する負担は軽く、表計算ソフトに入力してアップロードするだけで書類を作る際の「対話」を更新できる。「地方自治体が自前で電子化を進めるのでは時間もコストも膨らんでしまう。我々のようなスタートアップならば素早く対応できる」。グラファーの石井大地社長は、こう強調する。

遅れるデジタル対応

日本の自治体のデジタル対応は遅れている。ICT(情報通信技術)や、あらゆるモノがネットにつながる「IoT」の実装について総務省が尋ねた18年度の調査では、回答を得た1618団体のうち「すでに取り組んでいる」は17%にとどまった。「関心はあるが、特に行っていない」が55%で過半数を占めた。
事業を進める際の課題や障害(複数回答)を聞くと、80%が「財政が厳しい」と回答。「担当する人員が足りない」も68%あった。低コストで誰でも運用できる仕組みが強く求められている。

欲しい情報を欲しい人だけに

「16年1月生まれのお子さまは3歳児健診の時期です」「集団健診は内科・歯科健診、育児の相談を行います」。千葉県市川市は3月から、対話アプリ「LINE」の公式アカウントで情報を発信している。この取り組みを裏で支えるのがチャットボット(自動応答システム)開発スタートアップ、モビルス(東京・品川)のシステムだ。
子育てや防災など4種類があり、市民は望む情報だけを受け取れる。子どもが生まれた年月を登録すれば自動計算で健康診断の通知も届く。モビルス石井智宏社長によれば「チャットボットを使いこなせない事業者は多い。ITに不慣れな担当者でも運用できるように設計した」という。
行政から中小企業への支援体制もスタートアップが変えようとしている。福井県美浜町の「海のホテルひろせ」が福井県補助金を申請した際に頼ったのは、クラウドシエン(広島市)の人工知能(AI)だった。
中小企業が支援を受けようと考えても補助金助成金、公的融資など幅広く、申請条件や提出書類などもバラバラだ。
クラウドシエンのオンラインサービスでは企業の従業員数や業績などを分析して8000件を超える公的支援から最適なものを選び出し、税理士ら手続きのプロも紹介する。「分析は最短5分で終わる。手続きにかかる時間を9割はカットできる」(神原翔吾社長)。海のホテルひろせの広瀬誠専務は「補助金助成金の詳細を知ることで、新事業に挑戦する意欲がわいた」と振り返る。

国は法改正の努力を

煩雑な行政手続きは日本企業の競争力の足かせだ。世界銀行による各国のビジネス環境調査で、上位にはシンガポールデンマークなど行政のデジタル化に積極的な国々が並んだ。日本は39位で、法人設立や納税の手続きが難しいことが順位を下げる要因になった。スタートアップの助力で効率化できれば日本の競争力向上にもつながる。
それでもエストニアなどの「デジタル先進国」は日本をはるかに超える速度で電子化を進めている。海外から企業や優秀な人材を呼び込むには国が法改正に取り組むことも必要だ。
(企業報道部 駿河翼)
日経産業新聞 2019年6月25日]

イノベーションの本質。

日経より。
*[ウェブ進化論]想像力こそ
何となく。
過去にはない「画期的な新技術」こそがイノベーションだ、となんとなく思っているが、そんな新技術にそうそう出会えるものではない。

 自らがよほど研究に没頭している人でないとそんな機会はないだろう。

一方。
ソニー創業者の盛田さんの言葉は今にして実に示唆的だ。
盛田氏は発売10年の節目に社内で撮影された動画で、ウォークマンを「新しい技術はないが、技術をどう具体化するか、知恵によって新しい産業ができることを実証した」と評した。

手元にある技術をまとめあげる工夫でイノベーションを起こしたのだ。

「想像をはたらかせることで、世の中に新しい便益、喜びを提供することができる」――。
そのメッセージは今なお重みを持つ。 
「手元にある技術をまとめ上げる工夫」
「想像をはたらかせることで、世の中に新しい便益、喜びを提供することができる」
これなら何か突出した技術のない自分たちでもできるのではないだろうか。(と思いません?)
 
音楽を。
それも「質のいい音」を日常携帯できればどれほど楽しいだろうか。
そんな想像は今の自分たちにもできそうだ。
 
街中で、観光地で、居酒屋で、あるいは仕事場で「こんなことがあればいい」はまだそこらじゅうに転がっている。
ビジネスチャンスは無限にありそうだ。
 
ウォークマンに学べ 40年目に響く盛田氏の「教え」
2019年7月1日 4:30
ソニーの携帯音楽プレーヤー「ウォークマン」が7月1日、1979年の発売から40年を迎える。2人の創業者の思いが形となり、音楽を部屋の外へ持ち運ぶ文化を築いた。2000年代以降は米アップルの「iPod」やスマートフォンiPhone」が台頭。市場が激変する中で、不惑を迎えたウォークマンは、何をもたらし、どこへ向かうのか。
【全編映像】「人々の音楽を楽しむ習慣、あり方を変えた」 盛田昭夫氏メッセージ
ウォークマンは人々の音楽を楽しむ習慣、あり方を変えた。我々は誇りに思って良い」。ソニー創業者のひとり、盛田昭夫氏(1921~99年)の言葉だ。
ウォークマンの登場以前、音楽は家の中や車の中で楽しむものだった。ラジカセを肩に背負う若者もいたが、そんな時代にウォークマンを世に問うたのが、盛田氏と共同創業者の井深大氏(1908~97年)。長年ウォークマン事業を率いた高篠静雄元副社長は「井深さんの夢と、盛田さんのトップダウンの力で作り上げた」と振り返る。
飛行機での出張が多かった井深氏は機内で音楽を楽しむために手軽に持ち運べるプレーヤーを提案。盛田氏も気に入り、一気に事業化へと舵(かじ)を切った。

トップダウン

「音楽は生活に欠かせないが、外に出たら音楽がない。その状況を変えるんだ」。盛田氏は高篠氏らエンジニアを会議室に集めて熱弁を振るった。常識だった録音機能を省き、ただ音楽を聴く機器として提供する。社内外から疑問の声が出たが、「盛田さんが企画担当のように振る舞い大号令をかけた」(高篠氏)
通常の開発期間は1年半ほど。しかし、盛田氏が設定した発売日まですでに半年を切っていた。肩掛け型録音機をベースに、中の機構も変えずに回路のみをステレオに変更。量産体制の構築に苦労したが、何とか発売までこぎ着けた。
都内の代々木公園でスタッフが音楽を聴きながらスケートボードに乗る、異例の発表会を経て発売。初月の販売台数は3000台にとどまった。エンジニアらは総出で、歩行者天国国鉄(現JR)山手線に製品を持ち込み、8~9月に入ると一気に火が付いた。
初号機の発表会。スケートボードで「音楽を持ち運ぶ」スタイルを訴えた(1979年)
軽薄短小と使いやすさにこだわった」。高篠氏が証言するように、発売後も打ち手は続いた。ほぼ2年おきに設計を見直し、カセットテープケースサイズの「WM-20」(83年)などの新製品を投入。累計出荷台数は84年に1000万台、89年には5000万台に伸びた。他社の無数の類似製品とともに携帯音楽プレーヤーは世界に拡大。ウォークマンソニーのDNAを体現する製品となった。
メディア(記録媒体)の進化もけん引した。カセットテープでは音質や頭出しの機能に限界があったが、80年代にはCDが登場。ソニーは世界初のポータブルCDプレーヤーを84年に投入し、後に「ディスクマン」(CDウォークマン)と称した。92年にはMDウォークマンも発売。CDよりも小型で、編集がしやすい使い勝手の良さで支持を集めた。
しかし2000年代に入ると潮目が変わる。主役の座を奪ったのは、アップル。01年に発売した携帯音楽プレーヤー「iPod」だ。
そのiPodでさえ、iPhoneをはじめとするスマホの普及により以前ほどの勢いはない。通信速度が向上し、ダウンロードではなく、スマホからネットに接続して再生する「ストリーミング」が定着したためだ。「スポティファイ」など定額で使い放題の配信サービスが主流となり、記録媒体さえ必要としない世界が現実になった。
スマホがあればそれでいい」。そんな風潮に、ウォークマンも新たな方向性を模索する。そのひとつがストリーミングでは実現できない音質の追求だ。ウォークマンの最上位モデルは高音質なハイレゾ音源に対応。税別29万円。銅を削り出した筐体(きょうたい)など細部にこだわった。
ウォークマンの思想を受け継ぐ高級オーディオが、18年12月発売のDMP-Z1。税別95万円の据え置き型で、ヘッドホンで聴くスタイルで音楽ファンの話題を集めた。設計担当の松崎恵与氏は「ウォークマンと同じ基板レイアウトを使った」と明かす。また防水・防じん機能を持つワイヤレスヘッドホン「WF-SP900」は泳ぎながら音楽が聴ける。企画担当の井上千聖氏は水の中という厳しい条件を「技術の蓄積で実現した」。
イヤホン型プレーヤーで水の中でも音楽が楽しめる(ソニーのWF-SP900)
松崎氏や井上氏は20~30代。80年代の最盛期は知らないが、「ウォークマンへの憧れがある」という。40年にわたる栄光と挫折の歴史を経て、チャレンジが続く。
盛田氏は発売10年の節目に社内で撮影された動画で、ウォークマンを「新しい技術はないが、技術をどう具体化するか、知恵によって新しい産業ができることを実証した」と評した。手元にある技術をまとめあげる工夫でイノベーションを起こしたのだ。「想像をはたらかせることで、世の中に新しい便益、喜びを提供することができる」――。そのメッセージは今なお重みを持つ。
(企業報道部 岩戸寿)
日経産業新聞 2019年7月1日付]

まさにデフレ。

*[次の世代に]レンタルスペース×飲食店。
デフレなのか、それとも成熟なのか。
街中のプロントを覗くと何やら午後五時過ぎからワサワサとセッティングが始まっている。
聞けば、会社予約の20人規模の飲み会が五時半からスタートするとのこと。
ポップコーン食べ放題、前菜、サラダ、カルパッチョ、ピザにパスタに飲み放題付きで2980円とのこと。
これが働き方改革なのだろうか。
 
一方コンビニでの一人飲み(もはや一人立ち飲みではない)や、吉野家での小規模飲み会も流行っているらしい。
まだまだどうして。
さらに学生さんやママ友たちは「シェアスペース」を借りて酒や料理を持ち込んで飲み会をするという。
一人千円程度で三時間は楽しめるというから、これは安い。
こうなると、もうただ家で飲む「宅飲み」と何が違うのかわからないが、うるさくて狭い居酒屋で一人五千円も使うのではなく、快適で多様な過ごし方が広まってきたということなのだろう。
近所の居酒屋料理が出前できるレンタルスペースがあれば申し分ない、というかその方がむしろ快適だ。
居酒屋やレストランも、レンタル業者と互いにシェアし合えば立派なコラボレーションになるだろう。
昔の「出前」がより身近で便利になるということだ。
まだまだこれから「シェアできるもの」は増えそうだ。
 
東京都府中市、プロントとカフェバー 市の情報発信も
2019年6月27日 8:45
東京都府中市は27日、京王線府中駅構内に、プロントコーポレーション(東京・港)と共同でカフェバーを開業した。店内にラグビーや祭りなど、市にゆかりのある物の展示コーナーを設け、市の情報発信拠点を兼ねる。120インチの大画面スクリーンを備え、パブリックビューイングもできるようにした。
店にはラグビーのジャージーなども展示(東京都府中市)
店舗名は「183 FUCHU FAN ZONE with BEERTERIA PRONTO」。府中市が駅構内の敷地の一部に持つ使用権を、プロントが借りて出店した。
店舗面積は約110平方メートル、座席数は46席で、イベント開催に応じて120インチスクリーンを出したり、ステージを設けるなどレイアウトを変えられる。配管など店舗運営に必要なインフラ工事費約3000万円を市が負担した。プロントは投資額や売上高目標を明らかにしていない。
店舗はプロントが運営するが、展示コーナーは市が管理する。ラグビー・ワールドカップ(W杯)までの期間は日本代表や市内2チーム(サントリー東芝)のユニホームなどを展示し、機運を盛り上げる。市内への回遊を促すため、観光用パンフレットを10種類以上置く。

自分は悲しい。

*[次の世代に]考えるために
ほぼ日より。
自分の行き詰まり、について。
余命宣告を受けている幡野広志さんの発話が起点になっている。
いつ、どういうときに考えたのかは知りません。
たぶん、と、勝手な推察をさせてもらうなら、
「痛かったり、悲しかったり、迷ったりしたとき」に、
その場所から考えがはじまったのだと、ぼくは思います。
 
あらゆる疑問は、あんまり快適なところからは、
発生しないように思うのです。
考えざるを得ないというのは、少し悲しいことです。
そうだ。
「なーんも考えなくていい日常」というのはある意味幸せだ。
苦しい思いがないから。
 
けれどそれだと「次への一歩」がなくなる。
そこにただとどまっていればいいから。
自分の現在を見れば見るほど「自分は何なのか」を考え、苦しむ。
「だからそこから動こうとする」のが人の本質なのだろうか。
逆境こそが人を育てる…という先輩たちの声がこだまするようだ。
 
 

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・これは、なんなんだろう。
おれは、いまなにをやっているんだろう。
こいつは、どこからきたんだろう。
どうして、こういう考えになったんだろう。
ここから、次の一歩をどこに踏み出せばいいのだろう。
なぜ、この人はこう言うのだろう。
もともと、これは、なんだったんだろう。
この考えは、どこらへんから行き詰まっているんだろう。
だいたい、おれはなにがしたいんだろう。
どうしたら、この人はよろこぶのだろう。
このいさかいは、どうしたら解決するのだろう。
このことは、もう動かしようがないのだろうか。
 
文字で、一行ずつ書いたら読み飛ばされてしまうような、
ただの疑問を並べただけの文なのですが、
思えば、こんなふうななにかしらの疑問を、
人はずっと考えているのかもしれません。
考えてばかりいたら、なにもできなくなりそうですが、
なにかしながらでも、考え続けることはできます。
 
先日、公開の場で、幡野広志さんと話して、
また「この人は、このことについて、いまじゃなくて、
もっと前から考えていたんだろうなぁ」と思いました。
それは、彼のやっている「人生相談」の
回答の文章を読んでいても、いつも感じていることです。
どういう必要があったから、なのかはわかりません。
あるいは好奇心だとか探究心だとかが、
その動機なのかもしれませんが、そこここに、なにか、
「そのことについて考えた形跡」があるのです。
いつ、どういうときに考えたのかは知りません。
たぶん、と、勝手な推察をさせてもらうなら、
「痛かったり、悲しかったり、迷ったりしたとき」に、
その場所から考えがはじまったのだと、ぼくは思います。
どうして、そう思うかというと、
不肖わたくしが、そうだから、と言わざるを得ません。
 
あらゆる疑問は、あんまり快適なところからは、
発生しないように思うのです。
考えざるを得ないというのは、少し悲しいことです。
…また、「あはれ」みたいなことを考えてしまった。
 
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
へたの考え休むに似たりとも申しますが、どうにもねぇ。
 
 

 

SFの現実。

日経・脳の特集より。
*[ウェブ進化論]意識という自分。
自分たちがここ十年でみた映画の世界が現実になり始めているらしい。
これまでの時代にはもう少し"予想と現実の時間"にタイムラグがあったと思うが、今ついに技術革命が現実になっているようにも見える。
脳の機能が測れるようになった先には、その働きを操る時代が開ける。
海外ではトップアスリートたちが脳を操る技術「ブレインテック」で脳を鍛え始めた。
スキーのジャンプ選手の跳躍力が十数%改善したとの報告で人気に火をつけた。
プロのアメリカンフットボール選手やメジャーリーガーも利用しているそうだ。
理屈はともかく。
脳の「どこか」を刺激すれば身体能力が上がる、という臨床実験だ。
果たしてどんな結末をもたらすだろうか。
「脳を触る時代」の到来である。
そうして脳の解明が臨床的に進めば。
人間とはどこからきてどこへ向かうのか。
一体何者なのか。
古代ギリシャのころから哲学、芸術、そして科学が探究してきた永遠のテーマだ。
脳は宇宙と並び最後のフロンティアとされ、正体に迫れば答えは見つかるかもしれない。
21世紀。
自分たちはようやく「最後のフロンティア」に向かおうとしているのだろうか。
 
今は「(脳というのは)脳科学でみると1千億個以上の神経細胞ニューロン)が連なる全長100万キロの巨大な情報ネットワークにすぎない」という。
ではその「神経細胞とは何か」。
20年後、脳科学者で東京大学渡辺正峰准教授は自分の脳と機械とを接続して一体化するつもりだ。
意識を機械にアップロード(移し替え)し、寿命を迎え身体が滅びた後も機械の中で永遠に生き続ける。
これって。
全くSFの世界にはお定まりの設定だ。
漫画では五十年以上前からあるストーリーだ。
いよいよそれが現実化するのかもしれない。
「シンギュラリティー(技術的特異点)」と呼ぶ概念で今のAI社会を予言した、未来学者のレイ・カーツワイル氏も人の意識の機械への移植は今世紀半ばに実現するとみている。
著作やブログなんかで残さなくても、近々「自分の意識や反応」はお墓のようにコンピューターに移植できるようだ。
ますます残す「意識そのもの」がどれだけの値打ちがあるかを考えねばならない。
 
 

0.4秒 脳力が勝負を分かつ ブレインテックで鍛える

学びのカタチ(4)

[有料会員限定]
長らく日本の情報通信技術を支えてきたNTT厚木研究開発センタ(神奈川県厚木市)。ここの地下にプロ野球球団顔負けの室内練習場があった。足を踏み入れると、乾いた球音が気持ちいい。マウンドに立つピッチャーと対峙するバッター。よく見るとどこか奇妙だ。2人ともユニホームではなく全身黒タイツのような装い。額からつま先までセンサーとゴーグルが計18個ついている。位置情報や加速度のデータから、打ったり投げたりする真剣勝負の「脳の様子」をみる。
00:00 01:32
プロの場合、ボールがピッチャーの手を離れてからバッターに到達するまでの時間はおよそ0.5秒。時速160キロ超を投げるメジャーリーガー、大谷翔平選手になるとわずか0.4秒しかない。豪速球を打ち返すにはボールが手を離れた瞬間から球筋を見極め、打つか見送るかを判断する。スイングに備え、体の微調整もいる。スポーツ脳科学プロジェクトを統括するNTTの柏野牧夫フェローによると「選手自身も自覚できない、無意識的な0.4秒の世界が勝負の分かれ目になる」。

生徒の「集中度」を色分け

スポーツの世界では「心技体」のうち、肉体を鍛える「体」のトレーニングを重んじる傾向にある。しかし、高校球児を経てプロ野球に入るレベルになると、みな高い身体能力を備えている。それでも一軍、二軍の差がつき、日の目を見ないまま球界を去る選手も少なくない。NTTのチームは、脳を使いこなす「脳力」が一流選手には欠かせないとみる。研究では、脳の力を生かして「心」と「技」を磨いてもらう。
多くの計測機器やカメラを備えた「スマートブルペン」(神奈川県厚木市のNTT厚木研究開発センタ)
トップアスリートの脳を探り新たな鍛錬につなげる。こうした取り組みは世界でも珍しい。女子ソフトボールの日本代表が共同研究の契約を結んだ。プロ野球1球団とも協力、メジャーリーグも強い関心を寄せる。
最大のパフォーマンスを求めて、スポーツだけでなく教育現場でも脳にアプローチする試みが始まった。
6月中旬、三浦学苑高等学校(神奈川県横須賀市)の1年生、24人の進学クラスを訪ねた。この日は日本史の授業。3人ずつの8グループに分かれ、歴史を揺るがした太平洋戦争や戊辰戦争がなぜ起こったかを議論した。
生徒全員がハチマキのような装置を頭に巻いている。記憶や思考をつかさどる脳の前頭前野に近赤外線をあて血流から脳力を推し量る。「授業の理解度と集中力が関連するかどうかを検証していく」と東京大学の開一夫教授。教師の手元にあるパソコン画面には、生徒全員の「集中度」が6段階の色別に示される。議論が盛り上がったチーム3人の色は、全員が赤。夢中になっていたようだ。
脳活動計測装置を頭に装着して授業を受ける生徒たち。一人ひとりの脳の活動量はリアルタイムで画面に表示される(神奈川県横須賀市三浦学苑高校)
脳の機能が測れるようになった先には、その働きを操る時代が開ける。海外ではトップアスリートたちが脳を操る技術「ブレインテック」で脳を鍛え始めた。電極を頭に貼って微弱な電流を数十分間流して「トレーニング」する。日本でも重度のうつ病などの治療に使う医療装置の簡易版だ。数年前から市販され誰でも手に入る。スキーのジャンプ選手の跳躍力が十数%改善したとの報告で人気に火をつけた。プロのアメリカンフットボール選手やメジャーリーガーも利用しているそうだ。東京五輪まで1年余り。英科学誌ネイチャーは「脳ドーピングにあたるのではないか」と問題提起した。
人間とはどこからきてどこへ向かうのか。一体何者なのか。古代ギリシャのころから哲学、芸術、そして科学が探究してきた永遠のテーマだ。脳は宇宙と並び最後のフロンティアとされ、正体に迫れば答えは見つかるかもしれない。

意識を機械にアップロード

人間の脳は記憶だけでなく、意識や思考の源で心も宿るとされる。まさに人間そのものだ。しかし脳科学でみると1千億個以上の神経細胞ニューロン)が連なる全長100万キロの巨大な情報ネットワークにすぎない。この10年余、画像解析やセンサー、光遺伝学といったテクノロジーの急速な進化でおぼろげにその姿が見えてきた。動物実験では嫌な記憶を消したり入れ替えたりすることもできるようになった。
脳活動計測装置を頭に装着する生徒たち。正しいデータが出るように、計測前は目をつぶって深呼吸する(神奈川県横須賀市三浦学苑高校)
20年後、脳科学者で東京大学渡辺正峰准教授は自分の脳と機械とを接続して一体化するつもりだ。意識を機械にアップロード(移し替え)し、寿命を迎え身体が滅びた後も機械の中で永遠に生き続ける。荒唐無稽ともいえるが、渡辺准教授は真剣そのもの。実現に向けて2018年12月、大学発ベンチャーも立ち上がった。まず、脳をまねた新しいタイプの人工知能(AI)を開発しニュートラルな意識が宿る機械を作る。「技術的には可能だ。マッドサイエンティスト(狂気の科学者)と呼ばれるかもしれないが、何としても『死』はさけたい」
「シンギュラリティー(技術的特異点)」と呼ぶ概念で今のAI社会を予言した、未来学者のレイ・カーツワイル氏も人の意識の機械への移植は今世紀半ばに実現するとみている。シンギュラリティーは人間を超えるAIの登場だけが脅威というわけではない。人間がつくるテクノロジーがさらなるテクノロジーを次々と生み出し、指数関数的な速度の技術革新が政治や経済、医療や教育、スポーツのあり方を抜本的に変える。ブレインテックはその最たるものだ。
どんな技術にもメリットとデメリットがある。人間の象徴である脳に応用すると影響は計り知れない。予測通りにシンギュラリティー2045年に起こりえるとしたら、遠くない将来、「人間とは何か」を問い続けてきた人間そのものが変容するかもしれない。
文 編集委員 矢野寿彦、猪俣里美  写真 浦田晃之介
 

 

莫大な情報の中で。(3)

*[次の世代に]人間の脳は意識と知能でできている。
山極寿一・京大総長のインタビューより。
記事そのものを読んでもらうのが一番いいが、最後の部分は非常に示唆的だ。
AIについて。
人の脳とAI。知能は外部化される。
人間の脳は意識と知能でできている。
2つは異質のものだが、脳の中で操ることで生の会話や付き合いができてきた。
しかし、AIは知能の部分を外部化する。
意識の部分はデータ化できない。
情報社会で意識の部分は置き去りにされている。
共感するよりは知識で解決した方がいいという知能至上主義は危うい。
情報社会ではそれぞれの人間が1つの情報になっている。
中国のアリババ集団による「信用スコア」は人間が情報化される時代の先駆けといっていい。
人間は自ら情報になりたがっているようだ。
誰もがデータ化できるとなれば、人間はもう生物ではなくなる。
生物は一個一個違うものだから。
「共感するより、知識で解決する。」なんと恐ろしい感覚だろうか。
確かにそれでは人間ではない。
さらに「人間は自ら情報になりたがっているようだ」というのは思考からの逃避の表れなのだろうか。
 
莫大な情報の中で。
学んでも学んでも、情報社会のなかに絡め取られる。
昔は学べばそれだけ頭がよくなって、世界を知って広がった。
しかし、今は莫大な量の情報の中に浮かんでしまう。
絶望的ですらある。
だからこそ、違う人間のことをわかろうとするのではなく、違うことを前提に自分1人ではできないことを一緒に作りあげていく、という社会のあり方を学ばなければならない。
 
「学んでも学んでも、情報社会のなかに絡め取られる。」まさにだ。
「昔は学べばそれだけ頭がよくなって、世界を知って広がった。
しかし、今は莫大な量の情報の中に浮かんでしまう。
絶望的ですらある。
絶望的に、莫大な情報の海に浮かぶ自分たち。
まるで漂流しているようだ。
 
それでも短く結論は示されている。
「だからこそ、違う人間のことをわかろうとするのではなく、違うことを前提に自分1人ではできないことを一緒に作りあげていく、という社会のあり方を学ばなければならない。」
知識でわかるのではなく。
和をもって作り上げる。
知識は結局"そこ"のためにあるのだろう。
 

「わからないを受け止めよ」 山極寿一京大総長インタビュー

[有料会員限定]
私の学生の頃は知識を手に入れるには大学へ来なければならなかった。知識を持つ人間から伝達されるか、図書館で本を読んでその知識を得るしかない。今の時代は密室にいてもインターネットで基本的な情報なら手に入る。そういった意味では大学は知識を手に入れる学びの場ではなくなった。
インタビューに答える山極寿一京都大学総長
生きた知識は対話を通じて生の情報をやり取りすることで初めて得られる。言ったことが誤っていれば、間違っていると言い返せる。これによって情報や知識を変えることもできる。情報になったものを受け取るだけだと勝手に解釈されてしまう。インターネットでは情報は伝達できても、情報から得る大切なものはやり取りできない。講義も聞くだけでは意味がない。対話によってやりとりするアクティブラーニングで、考え方や考えたこと、考えることを学ぶ。実験やフィールドワークを通じ、生の経験を共有しながら学んでいく。
多くの人は「わかること」が「学び」だと勘違いしている。「わからない」ということを「知る」ことが学びだ。友達ならずっと付き合っていけばわかりあえると思っている人がいるが、人間なんてわかりあえない。わかりあえないことをいろいろやり取りしていることこそが学びだ。知識だって同じで、いくら得てもわからないことはたくさんある。わからないということを学びながら、高みに上がる、深みに入っていくということを面白いと感じなければ学びではない。
人間は言葉によって、世の中に因果関係があるという物語を作った。原因と結果を理解する長大なプロセスを短くするため、知識を利用する。知識が誤っていたり未熟だったりすると、結果は本物ではなくなる。結果をすぐに求めようと、都合のいい知識を当てはめても、世界はわからない。世界はそれだけ謎に満ちている。

一人ひとりが情報化される時代

わからなくなったときに原点に立ち返らず、先へ先へと進もうとする。変化を追いさえすれば良くなると考えるのは、現代資本主義、新自由主義の悪弊かもしれない。日本も明治以降、とにかく変化を求めてきた。そのために科学技術は使われてきた。今は大きな転換期。私たちが捨て去った19世紀や20世紀に起きていたものをもう一度見直して再現する方が幸せかもしれない。そういう考えも学びの結果だろう。
「生きた知識は対話を通じて生の情報をやり取りすることで初めて得られる」
人間の脳は意識と知能でできている。2つは異質のものだが、脳の中で操ることで生の会話や付き合いができてきた。しかし、AIは知能の部分を外部化する。意識の部分はデータ化できない。情報社会で意識の部分は置き去りにされている。共感するよりは知識で解決した方がいいという知能至上主義は危うい。
情報社会ではそれぞれの人間が1つの情報になっている。中国のアリババ集団による「信用スコア」は人間が情報化される時代の先駆けといっていい。人間は自ら情報になりたがっているようだ。誰もがデータ化できるとなれば、人間はもう生物ではなくなる。生物は一個一個違うものだから。
学んでも学んでも、情報社会のなかに絡め取られる。昔は学べばそれだけ頭がよくなって、世界を知って広がった。しかし、今は莫大な量の情報の中に浮かんでしまう。絶望的ですらある。だからこそ、違う人間のことをわかろうとするのではなく、違うことを前提に自分1人ではできないことを一緒に作りあげていく、という社会のあり方を学ばなければならない。
聞き手は編集委員 矢野寿彦
 

 

莫大な情報の中で。(2)

*[次の世代に]道具としての知識は万能ではない。
山極寿一・京大総長のインタビューより。
抜粋までにて。
言葉と物語と、そして知識。
人間は言葉によって、世の中に因果関係があるという物語を作った。
原因と結果を理解する長大なプロセスを短くするため、知識を利用する。
知識が誤っていたり未熟だったりすると、結果は本物ではなくなる。
結果をすぐに求めようと、都合のいい知識を当てはめても、世界はわからない。
世界はそれだけ謎に満ちている。

「言葉によって世の中に因果関係があるという物語を作った」

「プロセスを短くするために使う知識というもの」

「知識が未熟だと、結果が本物ではなくなる」

「都合のいい知識を当てはめても"世界はわからない"

・・・・・・・・・・

 新自由主義への懐疑

わからなくなったときに原点に立ち返らず、先へ先へと進もうとする。
変化を追いさえすれば良くなると考えるのは、現代資本主義、新自由主義の悪弊かもしれない。
日本も明治以降、とにかく変化を求めてきた。
そのために科学技術は使われてきた。
今は大きな転換期。
私たちが捨て去った19世紀や20世紀に起きていたものをもう一度見直して再現する方が幸せかもしれない。
そういう考えも学びの結果だろう。

 わからなくなった時に原点に立ち返らない。

先へ、先へ。

ただ変化を追えばいい、というのは今の自分たちだ。まさに。

学びは一生続く、ということがわかった。はぁ

「わからないを受け止めよ」 山極寿一京大総長インタビュー

[有料会員限定]
私の学生の頃は知識を手に入れるには大学へ来なければならなかった。知識を持つ人間から伝達されるか、図書館で本を読んでその知識を得るしかない。今の時代は密室にいてもインターネットで基本的な情報なら手に入る。そういった意味では大学は知識を手に入れる学びの場ではなくなった。
インタビューに答える山極寿一京都大学総長
生きた知識は対話を通じて生の情報をやり取りすることで初めて得られる。言ったことが誤っていれば、間違っていると言い返せる。これによって情報や知識を変えることもできる。情報になったものを受け取るだけだと勝手に解釈されてしまう。インターネットでは情報は伝達できても、情報から得る大切なものはやり取りできない。講義も聞くだけでは意味がない。対話によってやりとりするアクティブラーニングで、考え方や考えたこと、考えることを学ぶ。実験やフィールドワークを通じ、生の経験を共有しながら学んでいく。
多くの人は「わかること」が「学び」だと勘違いしている。「わからない」ということを「知る」ことが学びだ。友達ならずっと付き合っていけばわかりあえると思っている人がいるが、人間なんてわかりあえない。わかりあえないことをいろいろやり取りしていることこそが学びだ。知識だって同じで、いくら得てもわからないことはたくさんある。わからないということを学びながら、高みに上がる、深みに入っていくということを面白いと感じなければ学びではない。
人間は言葉によって、世の中に因果関係があるという物語を作った。原因と結果を理解する長大なプロセスを短くするため、知識を利用する。知識が誤っていたり未熟だったりすると、結果は本物ではなくなる。結果をすぐに求めようと、都合のいい知識を当てはめても、世界はわからない。世界はそれだけ謎に満ちている。

一人ひとりが情報化される時代

わからなくなったときに原点に立ち返らず、先へ先へと進もうとする。変化を追いさえすれば良くなると考えるのは、現代資本主義、新自由主義の悪弊かもしれない。日本も明治以降、とにかく変化を求めてきた。そのために科学技術は使われてきた。今は大きな転換期。私たちが捨て去った19世紀や20世紀に起きていたものをもう一度見直して再現する方が幸せかもしれない。そういう考えも学びの結果だろう。
「生きた知識は対話を通じて生の情報をやり取りすることで初めて得られる」
人間の脳は意識と知能でできている。2つは異質のものだが、脳の中で操ることで生の会話や付き合いができてきた。しかし、AIは知能の部分を外部化する。意識の部分はデータ化できない。情報社会で意識の部分は置き去りにされている。共感するよりは知識で解決した方がいいという知能至上主義は危うい。
情報社会ではそれぞれの人間が1つの情報になっている。中国のアリババ集団による「信用スコア」は人間が情報化される時代の先駆けといっていい。人間は自ら情報になりたがっているようだ。誰もがデータ化できるとなれば、人間はもう生物ではなくなる。生物は一個一個違うものだから。
学んでも学んでも、情報社会のなかに絡め取られる。昔は学べばそれだけ頭がよくなって、世界を知って広がった。しかし、今は莫大な量の情報の中に浮かんでしまう。絶望的ですらある。だからこそ、違う人間のことをわかろうとするのではなく、違うことを前提に自分1人ではできないことを一緒に作りあげていく、という社会のあり方を学ばなければならない。
聞き手は編集委員 矢野寿彦
 

 

莫大な情報の中で。(1)

*[次の世代に]学びの本質
山極寿一・京大総長のインタビューより。
いつ見ても男前なのは変わらないが、今回の言葉は実に厳しい。
普段は人懐こそうな氏が「学問の本気」を語ると怖さすら感じる。
まるでゴリラが人を諭しているようだ。
 
このエントリーでインタビュー内容をなんとか説明したい、と思ったのだが困難だ。
文章に無駄がなく、また解説の余地もない。
多分、「自分よりも深い思想」を説明しようとすると上滑りするのだと思う。
百年早いで!という感じだ。
滅多にない経験だ。
なので今回は抜粋までにさせていただきます。
 
・学びは生の経験の共有から。
講義も聞くだけでは意味がない。
対話によってやりとりするアクティブラーニングで、考え方や考えたこと、考えることを学ぶ。
実験やフィールドワークを通じ、生の経験を共有しながら学んでいく。
・学びの本質は「わからないこと」を知ること。
多くの人は「わかること」が「学び」だと勘違いしている。
「わからない」ということを「知る」ことが学びだ。
友達ならずっと付き合っていけばわかりあえると思っている人がいるが、人間なんてわかりあえない。
わかりあえないことをいろいろやり取りしていることこそが学びだ。
知識だって同じで、いくら得てもわからないことはたくさんある。
わからないということを学びながら、高みに上がる、深みに入っていくということを面白いと感じなければ学びではない。

 

「わからないを受け止めよ」 山極寿一京大総長インタビュー

[有料会員限定]
私の学生の頃は知識を手に入れるには大学へ来なければならなかった。知識を持つ人間から伝達されるか、図書館で本を読んでその知識を得るしかない。今の時代は密室にいてもインターネットで基本的な情報なら手に入る。そういった意味では大学は知識を手に入れる学びの場ではなくなった。
インタビューに答える山極寿一京都大学総長
生きた知識は対話を通じて生の情報をやり取りすることで初めて得られる。言ったことが誤っていれば、間違っていると言い返せる。これによって情報や知識を変えることもできる。情報になったものを受け取るだけだと勝手に解釈されてしまう。インターネットでは情報は伝達できても、情報から得る大切なものはやり取りできない。講義も聞くだけでは意味がない。対話によってやりとりするアクティブラーニングで、考え方や考えたこと、考えることを学ぶ。実験やフィールドワークを通じ、生の経験を共有しながら学んでいく。
多くの人は「わかること」が「学び」だと勘違いしている。「わからない」ということを「知る」ことが学びだ。友達ならずっと付き合っていけばわかりあえると思っている人がいるが、人間なんてわかりあえない。わかりあえないことをいろいろやり取りしていることこそが学びだ。知識だって同じで、いくら得てもわからないことはたくさんある。わからないということを学びながら、高みに上がる、深みに入っていくということを面白いと感じなければ学びではない。
人間は言葉によって、世の中に因果関係があるという物語を作った。原因と結果を理解する長大なプロセスを短くするため、知識を利用する。知識が誤っていたり未熟だったりすると、結果は本物ではなくなる。結果をすぐに求めようと、都合のいい知識を当てはめても、世界はわからない。世界はそれだけ謎に満ちている。

一人ひとりが情報化される時代

わからなくなったときに原点に立ち返らず、先へ先へと進もうとする。変化を追いさえすれば良くなると考えるのは、現代資本主義、新自由主義の悪弊かもしれない。日本も明治以降、とにかく変化を求めてきた。そのために科学技術は使われてきた。今は大きな転換期。私たちが捨て去った19世紀や20世紀に起きていたものをもう一度見直して再現する方が幸せかもしれない。そういう考えも学びの結果だろう。
「生きた知識は対話を通じて生の情報をやり取りすることで初めて得られる」
人間の脳は意識と知能でできている。2つは異質のものだが、脳の中で操ることで生の会話や付き合いができてきた。しかし、AIは知能の部分を外部化する。意識の部分はデータ化できない。情報社会で意識の部分は置き去りにされている。共感するよりは知識で解決した方がいいという知能至上主義は危うい。
情報社会ではそれぞれの人間が1つの情報になっている。中国のアリババ集団による「信用スコア」は人間が情報化される時代の先駆けといっていい。人間は自ら情報になりたがっているようだ。誰もがデータ化できるとなれば、人間はもう生物ではなくなる。生物は一個一個違うものだから。
学んでも学んでも、情報社会のなかに絡め取られる。昔は学べばそれだけ頭がよくなって、世界を知って広がった。しかし、今は莫大な量の情報の中に浮かんでしまう。絶望的ですらある。だからこそ、違う人間のことをわかろうとするのではなく、違うことを前提に自分1人ではできないことを一緒に作りあげていく、という社会のあり方を学ばなければならない。
聞き手は編集委員 矢野寿彦
 

 

池上彰の秘密

*[コミュニケーション]説明の本質。
相変わらずの人気の池上さん。
「どうしたら視聴者にわかりやすく伝えることができるのだろうか」。
新たな手法を学ぶための試行錯誤の日々でした。
あのときの体験があるからこそ、いまがあるのだろうと思います。
さらっと書いてあるが、今の池上さんの人気ぶりを見ても、例えば選挙の特番を見ても「明らかに分かりやすさに違いがある」ことに気づく。
これってなんなんだろうか。
数あるキャスターやコメンテーターの中でもダントツに「伝える力」が優れているのはなぜか。
もう一度「伝える力」を見てみなくては。
 
日常、自分などもプレゼン資料の原稿を作り、スライドを作り、さて勇んで客先に行ってみると「ふーん…それで?」となることはしばしばだ。(嘆)
こっちは「これで100%わかるでしょ?」と思っているが、どうやら10%くらいしか伝わってないぞ?? と。
 
本記事の東工大のコラムを読んでも、一見ごく分かりやすい「学び直しの大切さ」と「アメリカの失業労働者事情」の話でしかないように見える。
 
多分思うに
複雑な背景を持つ出来事を「うまく原理ごとに分けて抽象化」し、多くても三つくらいの力関係で説明している、ということではないだろうか。
今までは池上さんの選挙速報をただ見ていて「ほうほうなるほど」と思っていたが、これからは「この人は、何をどう説明しているのか」に気をつけて見てみたいと思う。
何か気づきがあったらまた報告します。
ではでは
 
長い人生に備える力に 学び直しが育む(下)
2019年6月23日 17:00
学びは現役世代にも仕事に役立ち、生活を豊かにするキーワードに
また、久しぶりに学び、外の世界を知ることで、会話が広がり、心にゆとりが生まれたといいます。育児と家庭を支える役割は重く、想像を超えるプレッシャーを感じていたはず。家庭の理解も得て大学へ通うことによって、自らの視野を広げるチャンスをつかんだのではないでしょうか。
女性たちのこうしたエピソードを聞き、実に素晴らしい体験をしたと思いました。たとえば30代、40代、50代へと人生経験を積んだからこそ、学び直しによって見えてくるもの、感じ取れるものがあります。家庭や職場での豊かな時間を過ごすきっかけにしてもらえたらと思います。
■働けることは生きがいのひとつ
私も長年の記者生活からテレビでニュースを読むキャスターに転じ、その後、子どもたちにわかりやすく国内や海外のニュースを解説する「週刊こどもニュース」を担当しました。書くことと、話して伝えることは全く異なる技術が必要です。
当時、私にとっては大きな環境の変化でした。「どうしたら視聴者にわかりやすく伝えることができるのだろうか」。新たな手法を学ぶための試行錯誤の日々でした。あのときの体験があるからこそ、いまがあるのだろうと思います。
さらに言えば、人生の生きがいのひとつは、自ら働き、生活の糧を得ることだろうと思います。それは健康で、意欲が続く限り、何歳になっても変わらない人生のかたちではないかと考えています。自らの役割を果たす機会を広げる上でも、学び直しは大事なステップになるでしょう。
いけがみ・あきら 東京工業大学特命教授。1950年(昭25年)生まれ。73年にNHKに記者として入局。94年から11年間「週刊こどもニュース」担当。2005年に独立。主な著書に「池上彰のやさしい経済学」(日本経済新聞出版社)、「池上彰の18歳からの教養講座」(同)、「池上彰の世界はどこに向かうのか」(同)、近著「池上彰の未来を拓く君たちへ」(同)。長野県出身。68歳。
2016年のアメリカ大統領選で現地取材へ訪れたときのことです。地元で主力だった製造業などが国際競争力を失い、失業者を多く抱える地域の事情を知りました。意欲があって、健康上も問題がないのに働くことができないことのつらさを知りました。
人々のなかにはアルコール中毒や鎮痛剤の過剰利用などで健康を害する人々が多いという現実も生んでいました。いわゆる「忘れられた人々」と呼ばれる問題です。トランプ氏はこうした社会問題に着目し、人々を勇気づけるメッセージを発したのです。それがトランプ大統領を誕生させる要因の一つになりました。
グローバル化の進展によって、国や地域は常に世界規模の競争にさらされ、技術革新の波にのみ込まれていきます。そうした変化は決して日本も無縁ではないのです。
新たな知識や技術を身に付けることは働き続け、生きるうえで、欠かせない取り組みです。学び続ける力は長い人生を歩むために備える力になってくれるでしょう。
 

 

3倍速の時代。

日経より。
*[ウェブ進化論]課題は思考力。
記者さんが「GAFAの便利さを捨てられるのか」に挑戦。
かなりのアンチテーゼだ。
GAFAは自ら市場をつくりだし、その場の「権力者」として君臨する。
グーグルは利用者が10億人を超すサービスを8つ抱え、フェイスブックは20億人以上だ。サービスを使うため、利用者はGAFAが定めるルールに従わざるを得ない。
で。詳細は記事にあるが、結論的には
米ミシガン大の研究ではネット検索は図書館で調べるより3倍速く、1テーマで15分節約できるという。
ネット検索にスマホSNSにネット通販。
GAFAのある暮らしが浸透したのは10年ほど前。
それらを断つと、生産性が3分の1に落ちたということか。
よく電子メールが普及し出した頃、大学の研究者が「驚異的なスピードで論文が完成する」と言っていた。
実験データのレビューや意見交換の待ち時間がゼロに近づいたのだ。
つまり「GAFA以前の世界から、三倍は早いスピードの世界」に自分たちはすでにいることになる。
「通信の待ち時間や情報の検索時間」は極限まで早くなった。
「そういう部分」の生産性は劇的に上がっている。
さて残りの「考える部分」はどれほどに向上できるだろうか。
自分の思考の密度を三倍にするのは並大抵ではなさそうだが、挑戦したい目標ではある。

GAFA断ち3週間 仕事の生産性は3分の1に

グーグル、アップル、フェイスブックアマゾン・ドット・コムの「GAFA」抜きで3週間生活してみた
自分(33)は茨城県つくば駅前を汗だくで走っていた。取材予定のシンポジウムの会場がどこか分からない。駅の地図では南に約500メートル。もう遠くないはずなのに、それらしき建物が見当たらない。開始時間は刻々と迫る。いつもの「グーグルマップ」が使えないだけで大ピンチだ。
GAFA」は金融や自動運転の世界にも勢力を急拡大する。4社の膨張を警戒し世界各国が規制に動くが、それがもたらす便利さを捨てられるのだろうか。
5月半ばから3週間。「GAFA断ち実験」は、スマホの電源を切って始まった。位置情報やネット検索履歴データなどを4社に渡さないよう、それらのサービスや製品を使わずに暮らしてみようと考えた。
今の取材テーマはデータ規制の動向。予習が必要だ。だがグーグルで検索する「ググる」はご法度。図書館にこもる時間が増えた。
ネットでは簡単に閲覧できる海外の最新の研究資料は書架になく、数カ月遅れの情報が載った専門雑誌を探すだけでも一苦労。あっという間に半日が過ぎる。先輩記者に聞くと、米ミシガン大の研究ではネット検索は図書館で調べるより3倍速く、1テーマで15分節約できるという。
ネット検索にスマホSNSにネット通販。GAFAのある暮らしが浸透したのは10年ほど前。それらを断つと、生産性が3分の1に落ちたということか。
取材先の弁護士には準備不足を怒られた。「それぐらい調べて来てください」。「ググれカス」というネット上の俗語が浮かぶ。ネット検索で分かることをすぐに周りに聞く残念な人のこと。すっかり劣等生だ。
生産性を犠牲にしてまで、自分のデータを守る価値があるのか。迷いが出た実験3週目。上司から「データ活用先進国の中国を取材して」と出張命令が出た。
中国は国ぐるみでデータを集め、スマホひとつで買い物や移動、交通違反の罰金支払いまでできる。その代わり、個人のデータや行動は企業や国に筒抜けだ。
「便利さこそ正義、という社会に満足ですか?」。上海で聞いてみた。会社員の王昶さん(35)は「知られたくない情報が漏れているかも。でも、スマホなしでは生活すらできない。仕方ない」と話してくれた。
「中国式」が正解とは思えないが、暮らしも仕事もデータが便利にしてくれている。もう離れられないのかもしれない。そして膨大なデータは人工知能(AI)など先端技術の開発にも使える。人口は14億人。そのデータの力を国の成長に結びつけていくのだろう。
3週間のGAFA断ちで、これ以上続けるとクビになりかねないと思うほど仕事に支障をきたした。簡単にGAFAと縁は切れない。データが自分の生産性を決めていたのだから。
生産性が経済成長の鍵を握るなら、GAFAを縛ったときに豊かな社会につながるかは分からない。どう共存していくか。プライバシーと利便性の両立だけにとどまらない課題を突きつける。
■そして友まで去った 選ぶ力が共存のカギ
「ピーという発信音の後に、お名前とご用件をお話しください」
留守番電話に切り替わるのは何度目だろう。いつも取材に応じてくれたIT(情報技術)ベンチャー経営者と連絡が取れなくなった。メールやSNSには反応がよかったのに。見捨てられたようで傷つく。
中国ではスマホ決済が普及し、財布を持たずに生活する人も多い(18日、上海市内の青果店
GAFA断ち実験を進める自分(33)に、想定外の孤独が押し寄せた。フェイスブックやLINEなどSNSを使えず、主な連絡手段はガラケーに。すると周りから「面倒くさいヤツ」と思われ始めたらしい。
こんなときに頼れるのは友達だ。大学時代のラクロス部の同期を「久々に飲もう」と誘った。まさかとは思ったが、彼らにさえ次々無視された。15人に声を掛け、都内の居酒屋に集まったのはたった2人だった。
ガラケーからの連絡が致命的だったらしい。「今どきショートメールなんて怪しさ満点。本人か疑った」と笑われた。ガラケー全盛期に培った友情のはずなのに、今やSNSの輪を外れると信頼が揺らいでしまう。
人とのつながりや助け合いなど目に見えない資本を示す、「ソーシャルキャピタル社会関係資本)」という言葉を最近よく聞く。GAFAは現代の人間関係を支える土台になっている。
フェイスブックは6月、「リブラ」と呼ぶデジタル通貨による金融サービスへの参入を公表した。不可欠な社会インフラとしての性格をさらに強めていく。
一方、GAFA断ちで良かったこともある。
「家で2人でいても、スマホをいじらなくなったよね」。妻との会話はぐっと増えた。図書館では「GHQ焚書」など興味深い背表紙が目に入り、グーグルの検索結果ではたどり着けない発見があった。最近悩まされていた深夜の頭痛も、不思議と消えた。
今まで家族のだんらんや健康を、知らないうちに失っていたのかも。そう気づかされた。
GAFAに与えられるものと、奪われるもの。どちらが重要かの答えは難しい。次第にこう考えるようになった。「こうして迷えること自体、幸せなのではないか」
実験中に訪れた中国では、あらゆるデータが管理された社会システムの下、人々は「ここから外れて生きられない」と抵抗をあきらめていた。日本はそこまで徹底したデータ管理社会ではない。データとどう関わるか、個人に選ぶ余地がある。
実験を終え、スマホSNSの使い方が変わった。アプリのプライバシー設定を厳しくし、時にはスマホの操作をやめて妻との会話や図書館での時間を楽しむ。小さな工夫だが、誰にどこまで「自分」を渡すかを自ら決める。その貴重さこそ、実験の成果だった。
あの過酷で孤独なGAFA断ちは、もう二度とごめんだけれども。
GAFAとの関わり方の選択肢は、個人が握る。規制だけでは解決にならない。共存のためには、どう利用するのかを自分で判断することが必要だ。
GAFA規制 国家脅かす存在に
データ寡占を強めるGAFAなど巨大IT(情報技術)企業に対し、世界で規制強化が広がる。だが超情報社会の中でGAFA抜きの生活は現実的でもない。うまく折り合う模索も始まる。
規制で先行するのが欧州と日本だ。独占禁止法や個人情報の保護ルールを厳しくし、けん制する。GAFAの強大さが市場競争をゆがめ、利用者の情報を搾取するなど、国の土台を脅かしかねないとの危機感がある。
GAFAは自ら市場をつくりだし、その場の「権力者」として君臨する。グーグルは利用者が10億人を超すサービスを8つ抱え、フェイスブックは20億人以上だ。サービスを使うため、利用者はGAFAが定めるルールに従わざるを得ない。
日欧当局はGAFAがこうして個人にも「優越的地位」を乱用している疑いがあると警戒。お膝元の米国も議会が反トラスト法(独禁法)違反の調査を始めるとし、慎重姿勢から転じた。
中国のように官民で大量のデータを囲い込み、産業振興に生かす新興国も増えている。だがそれは監視社会化と隣り合わせだ。便利さを取るか、プライバシーを優先するか。世界は岐路に立つ。
 

 

飲食店フィードバックシステム(2)

*[飲食業]ほんの少しの言いたいこと、聞きたいことを。
飲食店に行って「美味しかったこと」を伝えこそすれ欠点や不満をその場では言いにくい。
勢い、食べログなんかで主観たっぷりで皮肉を書いたり、誰の参考にもならないコメントをつけたりする。
もっと店主に直接的に感想を言う「フィードバックシステム」があってもいいのではないだろうか。

本来は、食べ終わったお客さんにカードを渡して「お通し」「前菜」「焼き物」「揚げ物」「メイン」「締め」「お酒」などその日のメニューについて点数をつけて貰えばいい。

けれどそれは面倒だ。
しかも食べログ族のように、気まぐれで価値観のバラバラな人の意見まで拾う必要もないだろう。
そのお店の「常連で、しかも多様な層のお客さん数十人」くらいでいい。
匿名でモニターになってもらい「自由な意見をもらえるシステム」を作る。
また他店で「よかった食材や酒の情報」なんかももらえるようにしておいたらいい。
食べ歩きが好きな人は情報量も豊富だから、思わぬヒントがもらえることもあるだろう。
 
案外頑固な料理人も、直接のお客の声は届くものだ。
スマホで使いやすいウェブサイトで、自由に意見や提案ができるようにしておけばいい。技術的にはカンタンだ。
思えば企業の転職事情などは、すでに「転職会議」とか多くのサイトでガラス張りになりつつある。
幅広く、ワンオペで営業しているような店主が使える「店とお客の交流システム」は需要があるのではないだろうか。
しばらくお店にインタビューしてみようと思う。

飲食店フィードバックシステム(1)

*[飲食業]もの言えぬ客。
以前飲食店巡りは経営者との出会いとも書いたことがあるが、本当に「その店舗ごとに経営がある」。
しかもその経営の方針が、そこでいただく料理や酒に現れているという実にストレートな世界だ。
こんな楽しいことはない。
しかも美味しいし。
 
がしかし。
「あのお店は100点!」と思える店が少ないのも事実。
こちらも落ち着いて飲みたい、とかゆっくり話がしたい、とかTPOがあるし、お店側にも事情があるのはお互い様だが。
会社の経営も同様だが「周囲が経営者に直接ものをいう」というのは案外に難しい。
上場企業ならまだしも、零細企業は独裁的なことが多い。
 
自分も相当な数のお店を訪問しているが、店主に直接
・もう少しお酒の種類を増やしてはどうか、とか
・お通しが(大して)美味しくないですね、とか
・揚げ物をお醤油や塩や辛子で食べられるようにしてはどうか、とか
・一人前のポーションが大きすぎるので(値段はそのままでも)少なめにしてほしい、とか
・もう少しお店を整理整頓してはどうか、とか
・服装にもう少し清潔感があったほうがいい、とか
・亭主があまりに無愛想ですね、
とかいうことを言える店はごく少ない。
でも本当は経営者も聞きたいのである。
お客の本音を。
怖いけど。
「それ」から目を背けては独りよがりのお店になってしまうことを知りつつも。
(つづく)

自分の仕事。

*[ウェブ進化論]奪われるのではなく、その先。
それにしても。
世の中、一気に「自動運転ありき」に走っている。
ここまで統一的にムーブメントが起こるのは、やはり自動車という「世紀の基幹産業」のせいだろうか。
自動車は、今後瞬く間にテストを繰り返し、最初は限定的な区域で。そのうち一般道でも走り出すだろう。
今でも取りざたされているが、それは「ドライバー」と言われる人の職を奪うけれど。
そうだ。
テクノロジーは、人の手仕事を奪う。
というかずっと「奪ってくれてきた」歴史がある。
自分が幼い頃に駅にいた「改札の切符切り員」はもういない。
早晩、路線バスの運転手も、タクシードライバーもいなくなるだろう。
そして駐車場や工事現場の警備員も機械に置きかわるだろう。
今は風物詩の、(外国人の)コンビニの店員も無人になるだろう。
 
ホワイトカラーも労働者もコンピューターの脅威を問題にするのではなく「その先でできること」を考えるチャンスだ。
せっかく「機械が自分たちの代行をしてくれること」について「職を奪われる」などと反発するのは悲しすぎる。

 労働からの解放、を素直に喜びようやく「自分だからできること」を考える好機の到来だ。

まだまだ機械には「愛想のいい接客」とか「その人に合わせた話題づくり」なんかはしにくいに違いない。
そんなところに、キラッとしたチャンスは転がっているだろう。
 
何十年も先の未来には、そんなところも機械が克服しているかもしれない。
さて「そんな時代」には自分は何ができるのか。
そんな次の次の時代、について考えておきたいものだ。
 
 
[FT・Lex]ルノー・日産が米自動運転開発会社と提携
2019年6月24日 2:46
パリの環状高速道路は自動運転車にとって、究極の難関だろう。コンピューターはストレスがかかる渋滞での運転を習得できるだろうか。
ルノー日産自動車20日、米グーグルの持ち株会社アルファベット傘下の自動運転開発会社、米ウェイモとの提携を発表した。両社は賢明にも、どれほど壮大な野心を持っているかは明らかにしなかった。
米展示会に出品されたウェイモの自動運転車=ロイター
3社はフランスと日本で、自動運転の輸送サービスを始める計画だ。現地に別々の合弁会社を設立するのは、国内市場が標的であることを示す。運転環境や習慣が異なるだけでなく、「安全な」自動運転車について、世界共通の定義は存在しない。
それでもウェイモとの提携は、自動車メーカーが電気自動車や自動運転技術によるディスラプション(創造的破壊)を生き延びるためには、世界規模の連携が必要であることをさらに認めるものだ。
ルノーとの330億ユーロ(約4兆310億円)相当の経営統合を改めて提案すべきかどうか検討中の欧米フィアット・クライスラー・オートモービルズFCA)も、このことを忘れるべきではない。FCAは今月初め、条件を巡って折り合わず、ルノーとの統合提案を撤回した。
ルノーと日産のウェイモとの提携は、困難を増す両社の連合が活力を取り戻す可能性があるという意味では有用かもしれない。ただ、フランスと日本の自動運転部門を分けておくことで、将来の連合の解消が容易になるだろう。

公道実験を実施中

2009年に設立されたウェイモは、フェニックスで自動運転車の公道実験を実施している。同社は自動運転技術の開発では先頭を走っている。今度は日本と欧州の提携企業を得て、それほど太陽が降り注がず、規制の枠組みも異なる地域で、自らのビジョンを試す機会が与えられる。
FCAルノーの統合案は、規模の経済が得られるかどうかによる。50億ユーロのコスト削減が可能だと言われている。ウェイモの連合は、別の意味で規模が問題になる。自動運転車が成功するためには、何年にもわたる多額の投資が必要になる。特に安全性について、消費者と規制当局に納得してもらう必要がある。
スイス金融大手UBSによると、運転手の要らない「ロボタクシー」が世界に普及すると、30年までに2兆ドル(約215兆円)以上の収入をもたらす可能性がある。コンピューターが制御するサービスが、公共輸送機関にも従来型のタクシーにもとって代わる。
いつの日か、自動運転車が危険を冒してパリの環状高速道路を走る日が来るかもしれない。
(c) The Financial Times Limited 2019. All Rights Reserved. The Nikkei Inc. is solely responsible for providing this translated content and The Financial Times Limited does not accept any liability for the accuracy or quality of the translation.

AIライター。

*[ウェブ進化論]自分の文章くらいから
SiriやAlexaはまだまだ天気予報くらいにしか使えないが、一方スマホの入力辞書の精度はかなり上がっている。
(今はまだ「お世話に」と入れて「なっております」とか「誠に」で「有難うございます」くらいの反応だが、それでもかなり助かる)
自分のテキスト入力を全てウォッチしてくれるAIがいて、過去の自分の文字入力や、どんな記事を読んでいるかなどを分析してくれていれば。
多分「自分と同じ程度の文章を書き上げる」くらいのAIはすぐに登場するのではないだろうか。
特にお礼とかの「挨拶メール」なんかはもうすぐにでも自動化できそうだ。
そうした「挨拶」は自動化しないところに意味がある、という批判はさておき。
 
もう少し人間の高度な部分もぜひ任せたい。
つまり「自分が生活する中で、どれほどオリジナルな反応をしているのだろうか」ということに注意したいものだ。
自分の体感では(そういう自分ならではの会話は)「十分の一」くらいでしかない。

e-mailで外部とやり取りしているうちの10パーセントくらいが「自分なりの反応」で、残りの九割は定型的なものだった。

そんなことに毎日の時間を使っているのだとしたらもったいない、と思わないだろうか。
(価値観を共有している執事のように)、コンシェルジェのAIが「本日はこう対応しておきました」と代わりに報告してくれる日も近そうだ。
 
自分たちは、"まったく新しい相手へのコンタクトの方法"をより一層考えておかなければならないのだろう。

結局、学びでしかない話。

*[次の世代に]学びの場思考。
55年を経過して自分がいる。
今あらためて"何がしかの自分"がいるとすれば、その原因(というか発祥)は「周囲の環境」でしかないと思う。
幼児の両親から義務教育から家族や近隣や友人たちとの人間関係から。
社会に出たら「仕事」という存在を中心に、また「外部との関係」ばかりで育ってきた。
つまり外部がもしも「真空」だったらクラゲのような人間に仕上がっていただろう、間違いなく。
自分はまさに「外部との摩擦の代物」でしかないことに気づく。
生来の自分の能力や性質がどういうものだったかは定かではない。
なぜならそれはさっきの「外部との摩擦」でしか測れなかったから。

そして今の自分だって「外部との関係」でしかない。

山奥の秘境でこれから暮らしたって、そこでの環境と生きていくわけだ。
 
さて、あと長くて30から40年となりました。
そしてこれからも「外部との関係ありき」でしかいられない。
居酒屋に行くのは最高の学びだ、などと言いつつ。
 
仕事もあと何年従事しているかわからないけれど、すべてのシーンが「学びの場」であると理解できれば、少しは自分の態度だって変わりそうだ。
「利害や感情のぶつかり合い」だと思って他人に接するのと、「学びの場」と心して挑むのでは心構えからして違う気がする。
友人とも家族とも、居酒屋の亭主とも「こここそ学びの場」と思って接しようと思っている。