藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

犠牲vs便利(1)

*[ウェブ進化論]犠牲が前提。

もしも今後、大学などで研究をする機会があれば、ぜひテーマにしたいと思っているのは「利益と被害の経済学」である。
交通事故の犠牲者は、人力や馬車くらいならほとんどなかっただろうが、今でも(減ったとはいえ)世界で毎年135万人以上の人が亡くなっているという。

(ちなみにコロナの死者は一月末時点で565万人)

そんな犠牲を贖うために保険制度が整備されているが、保証されるのはお金ばかりである。

つまりみんなで保険をかけてお金がもらえる仕組みにしておけば、多少の犠牲が出ても便利な方を自分たちが優先していることになる。

自動車をEV化しようという声は大きいが「車を廃止しよう」という意見はまったく聞かない。

 

問題は"犠牲はどの程度のなら許されるのか?"と言うことだ。

例えば「年間に1割の人が犠牲になるような乗り物やサービス」があった場合、いかに高額の保険をかけても、その存続は許されるだろうか。

恐らく無理だし、第一それでは利用者がいないだろう。

事実、危険すぎて発売が禁止された商品は世の中にたくさんあるし。

 

で元に戻って、

仮に「これからエンジンを搭載した自動車というのが世界中を走ります。

日本でも年間3000人は亡くなりますが、保険制度も充実していますのでヨロシク!

ということになるのだろうか。

(つづく)

 

 

 

出発いろいろ

*[次の世代に]これまでと今とこれから。

10年後の自分から今の自分にアドバイスをする、という話を何度か書いたけれどその応用。

過去の自分に今の自分を見せたらどう思うか。

「へえ」と思ってくれるだろうか。

それとも「おいおいやめてくれよ」と思われるだろうか。

そして。

10年前の自分は「どこへいくにしても自由だった」のだ、という当たり前の事実に気づく。

今にして思えば。

そしてそして。

 

そして今の自分は10年後の自分から見た「それ」である。

たどり着いた"今"を基準に考えると、これまでが「ひたすらの一本道だった」と思ってしまうがさにあらず、だ。

かなり無限の選択の中からたどり着いたのが今なのだ。

 

自由に、まったく自由に「10年後の自分」を想像して構わない。

 

気分チェンジ

*[七つの習慣]終わった気分になる方法。

終わりを考えることから始める、というのは七つの習慣の一つだが、それはどちらかというとロジカルな話である。

 

ちょっと違って「終わった後を想像することで始める」。

特に気の進まないことに立ち向かうときに使う。

難しい交渉ごととか、困難が予想される提案とか。

クレーム処理とか謝罪なんかもそうだ。

なので「それが終わった後の気分」を想像する。

良くも悪くも終わった…

 

終わったことなら仕方なし、と。

でそんな「終わった気分」を思えばこそ、どうせ終わるのなら最善を尽くそう、とも思える。

全力で当たったのなら悔いもなしだ。

全力で当たった敗北に悔いはない。

全力になれなかったことには後悔が残る。

 

"どうせの覚悟"は日ごろから大事です。

 

 

緩急

*[次の世代に]たまには走ることを。

毎日街中を歩いていると、一生懸命歩いているつもりでも、ジョギングしている人に後から簡単に追い抜かれ、そしてあっという間に視界から見えなくなってしまう。

当たり前だが「歩くと走る」ということの差はすごいものだなと思う。

 

まず毎日必ず歩く、というのは身体の代謝には重要なことだが、毎日歩くことが習慣になったら、次は「歩くか走るか」を考えてみたい。

 そして日々の生活が「ゆっくり歩いている」という感じなら、たまに意識して「少し走ろう」ということをしてみてはどうだろうか。

 

例えば忙しく日帰りで遠出をしてみるとか。

映画や読書にひたすら耽るのだっていいだろう。

息苦しく限界まで走る必要はなく、けれどその走った距離は、"結構大きな何か"をもたらしてくれるかもしれない。

あのすぐ目の前からいなくなってしまったランナーのように。

 

どこか違う風景の見える場所にたまには行ってみたいものだ。

ときにはテンポよく走りましょう。

 

 

 

 

選択の結末

*[次の世代に]止める力と続ける力。
人は「はっきりとした意味を理解できないこと」をやることにとても抵抗を感じる。

「あまりやりたくない」と感じることをやらねばならない場合には、気持ちがギブアップしないように注意が必要だ。

つまりそのやりたくないことについて、何かの意味を見出したり意味付けをしたり、あるいはそれをする中で「少しの成長や手ごたえ」を見つけると継続することができるようになる。

ただそうした我慢して重ねた先に「大した結果は伴わない」ことが多いのも事実である。

つまり我慢して努力をする力を身につけていると、それを「中止する」と言う大きな決断ができないことになる。

 

今になって後悔だが自分の学生時代を思い返してみても、古典や数学や歴史の勉強にどんな意味があるのかを、見出せなかった。

なので重要なのは、まず「意味を見いだす力」と言うことになるだろう。
そしてさらに重要なのは、けれど「意味付けすること」そのものが目的になってしまわないように注意が必要だ。

意味付けが上手で、何十年も働いた後に、実はやりたいことがこれではなかった…という結末は避けたいものだ。

 

時間はやりたいことに使いましょう。

躊躇なし

*[七つの習慣]言葉の変換シリーズ。

ここ最近「難儀が起きたら"よく来たな、歓迎しよう!"」と言ってみたり、

失敗したら「この〇〇を貴重な教訓とするならば」と言ってみたりということを書いている。

割と好評のよう。

これは"コトが起きたら、躊躇なく自動的に口にする"というところがポイントで、「言葉から気分を誘導し、行動へ導く」という高等テクニックである。(疑)

今日は第三弾。

「〇〇など恐るるに足らず。(←〇〇には不安なことを代入する)と言ってみる」

病気でも老いでもいいし、入試とかあるいは「困難な調整ごと」とかでもいい。

よく戦国武将が「信長など恐るに足らず!」とか言って撃沈したりしているが、あれは自分や周囲を鼓舞したくて放つ言霊である。

どのみち死ぬ時ゃ死ぬし。

 

「恐るるに足らず」

躊躇なくこう口にすることで、不安を煽るのではなく善後策を戦略的に考えることができるのだ。

自分が社会に出てからの経験でも、不安を募らせているうちに時間が経ってしまい、結果的に悪い方向に転がった、という経験は少なくない。

「躊躇なく報告する」とか「躊躇なく詫びる」とか。

この「躊躇なく」はなかなか使えるやつなのだ。

 

そして躊躇なく行動に移ろう。

 

フリーダム

*[次の世代に]選択の自由。

コップの中の水はまだ半分あるのか、もう半分しかないのか。

自分の若いころを思い出して、まっ先に思い浮かぶのは「閉塞感」だった。

歌にもしばしば謳われるくらいだから、親のスネをかじっている子供というのは皆それなりに息苦しさがついて回るものなのだろう。

 ところが今の自分が見てみれば。

自由自由。

何かの勉強をするのも自由。

しないのも自由。

働くのも働かないのも自由。

海外に行くとかボランティアをしてみるとか。

やれることだらけで迷ってしまう。

あんなに息苦しかったのは何のせいだったのか。

自分の「大体標準的な進路を行かねばならない」という固定観念が自分を縛っていたのだ。

なんとも昭和な空気だった。(嘆)

それはともかく。

 

その空気は、実は今も同じではないだろうか、という話。

社会人になって仕事もあるし家族もいるし、どんどん年も取ってくる。

何か先の可能性なんてほとんどないような気分になっていないだろうか。

うんと年上の先輩と話をしているとそんなことに気付かされる。

「まだまだ先は長いよ。身体だけは大事にね」と。

学生の頃のように、今も「自分を狭めて見ている」のだとしたら勿体ない。

 

自由を探して、チャレンジの数を数えよう。

 

 

目的に据える

*[次の世代に]チャレンジカウンター。

社会に出て何十年も経つと、自分で意識していなくても保守的になっている。

どんどん新しい人と会うことも億劫になり、知らない人のいる飲み会には進んでは参加しなくなったり。

その方が思わぬストレスに遭ったりせずに穏やかに過ごせる…というと聞こえはいいが、何のことはない「ラク」に流されているわけだ。

昨日「自分の身をアウェーにおく」ということを書いたけれど、そのアウェーを数えましょう、という話。

 

クレームを聞きに客先に行く、とか

競合する会社とプレゼンを競う、とか

銀行に融資の依頼に行く、とか。

一か八かで意中の人に告白するとか。(レッツチャレンジ)

ひと月の終わりに「今月はいくつチャレンジしたかな」と思い返す。

例の居酒屋チャレンジでも構わない。

苦手だった海鞘(ホヤ)への挑戦もカウントしよう。

youtubeでプログラミング入門なんてどうだろうか。

 

挑戦の数だけ学びがある。

もはや挑戦こそが生きがいだ、というくらいに考えたい。

なんだかアントニオ猪木が思い浮かぶ。

レッツチャレンジ。

 

 

 

修行の環境

*[次の世代に]アウェー志向。

変化を嫌って、つい楽な日常を送ってしまう自分をトレーニングする方法。

名付けて「常にアウェー」。

例えば異業種の交流会に出ると、いくら年を取っていても自分で一から自己紹介する必要がある。

当たり前だ。

そこには「社長 ! 大変ご無沙汰しております。」と声をかけてくれる人はいないから甘えはない。

そういう意味でプレゼンや講演というのはかなりいい機会だといえるだろう。

プレゼンや商談もできれば「相手先」でやりたい。

営業のベテラン講師で「勝つためには絶対に相手先で商談しない」という人がいた。

どうしてもというときは近隣の貸し会議室を利用する、という徹底ぶりだったが、それほど環境が影響するということなのだろう。

 

あえて"専門家の中"に飛び込む。

これもかなりキツい。

相手のルールに合わせて戦う格闘技みたいなもんだ。

防戦一方だがいい経験になる。

 

行きつけの寛げる居酒屋。

これも緊張感を欠く。

いや欠いたっていいじゃない、という話だが、だから全く見知らぬ居酒屋に目星をつけて飛び込む。

これも修行。(呆)

亭主との間に独特の緊張が走るが、またこれがいいのだ。

 

勝敗を競うのであれば、勝つために「あらゆる有利を整える」ということなのだと思うが、普段の修行にはアウェーを志向してはどうだろうか。

 

 

 

解体考

*[次の世代に]拘縮の恐怖。
歳をとると筋肉が痩せ、関節を動かす機会が減って可動域が狭くなり、ひどいと「拘縮」と言う状態になる。

この怖い拘縮は、実はいろんな組織で多発している。

しかもタチの悪いことに、組織の拘縮はほとんど目に見えないのだ。

新しいことへの挑戦が必要になり、体制を変える必要があるときに、動こうとすると亀裂が生じたり、全くスピードが追いつかなかったりする。

もちろん大企業にその傾向はひどいが、中小の組織でも容易に発症する。

この拘縮を防ぐには、身体と同じく「日ごろのストレッチやエクササイズ」が欠かせない。

また難儀なことに、いったん老化してしまった体はなかなか元に戻らない。

若返るためには歯を食いしばってリハビリをする必要があるのだ。

とここまで書いて、組織というか「人間関係そのもの」が拘縮するのだと気づいた。

家族とか友人関係とかもコミュニケーションがなくなってたりして硬くなると、なかなか元には戻りにくい。(嘆)

リハビリはどうしたものか。

 

それはともかく、組織の場合は秘策がある。

"バラバラ"にするのだ。

組織再編とはよく言ったものだが、それぞれの人たちが「自分のポジションを保守しようと」して、ガチガチになっているのが固まった組織だ。

そうした夫々の力関係は、一度解体してリセットするのが手っ取り早い。

 

政治でも官僚でも、改造より解体が有効な場合はかなり多いのではないだろうか。

メジャーの交代

*[次の世代に]テーマにしたいもの。

定年とか老後とか、あるいはFIREとかいって早めのリタイアが話題になっている。

ようやく「働くだけ働いてあとはオマケ」というのが人生ではない、という考えが常識になりつつあるのだ。

令和になって、いよいよ「人生100年の再定義」がなされる時期なのだと思う。

そこでだ。

さて60-100歳までの間は何をしますか? という素朴な問いに自分たちは向き合わねばならない。

「社会参加しながらできる限り働く」というのは生活のスタイルとしてはいいけれど、"それこそが絶対にやりたいこと"だろうか。

なにかの「生きていくためのテーマ」を別に考えていく必要がありそうだ。

で何がいいたいか。

 

いろんな先輩方の話を聞いていて、自分はそのテーマは「学問」なのだと思うに至った。

学問だから、自分なりにどんな分野のテーマでもいいし、芸術的な実ワークだって含まれていてもいい。

そしてその淵は深くて、終わりがない。

お金でもない、権力でもない、けれど自分たちがずっと考えたいテーマは「学ぶ」ということになりそうだ。

新しい時代の物差しが、いよいよ常識になってくるだろう。

 

 

 

全力で

*[七つの習慣]楽しむ覚悟。

最近、

「問題が起きたら、自動的に"おお、よく来たな"とか"待っていたぞ!"といってみる」

とか

「〇〇を貴重な教訓とするならば…(←〇〇には事件や禍事を代入する)という公式を必ず使う」などと書いている。

自分なりの「思考の習慣」作ろうとする試みです。

これ、実は結構効く。

そしてもう一つ。

何かをする前には「よし、〇〇を存分に楽しむぞ」といってみる。

というのを提案したい。

対象は仕事のプレゼンでもいいし、コンクールでもいい。

意中の相手への告白でもいいし、例えばクレーム処理なんかでもいい。

 

そう思えば、旅行でも散歩でも芸術でも。

"遊び上手"と言われる人は全力でそれを楽しんでいるように見える。

そして「どんなことでも楽しみに変えている」のではないだろうか。

戦国時代の武将たちだって戦いを嫌がっていたようには思えない。

むしろ当然のこととして楽しみに変えていたのではないかと思う。

 

今の時代は何かとストレスフルで「嫌なことのほうが多い」と感じることもあると思うけれど「何でも楽しむスタイル」に変換してはどうだろうか。

 

では今日の夕食も存分に楽しみましょう。

 

 

日本の秘密

*[ウェブ進化論]それでも日本で暮らしたい。

日本にはこの国だけの「いろんなガラパゴス」が存在して、ちょっと理由が曖昧な文化もあって、失望するところもあるけど、そこが気に入っているところでもある。

 海外経験の豊富な友人や先輩たちに聞いてみると「それでも日本が一番いい」と仰る人も多い。

何か正解だけをいただくようで申し訳ないが、やっぱりそんな「なにかいいところ」がこの国にはあるのだろう、と。

でこれもその一つ。

日本のエンジニアは転職を考えない人が依然として多い。

農耕型民族、といってしまえばそれでお終いだが、例えば報酬が4-5倍違ってもあえて外資にチャレンジする人は少ない。(この外資って呼び方もかなり日本的ですが)

結局「長期雇用」というスタイルが"日本民族"にとって実に適合している仕組みなのだ、などと説明したくなる。

ハンターよろしく「己の腕一本で荒野をわたり歩く」ようなスタイルはひょっとして「遺伝子的に」馴染まないのかもしれないが、何かもっと深い理由がありそうだ。

 

「日本という国そのものに何か理由がある」という気がするけれど、そうだとすると

ヨーロッパ大陸にもない、"自由と競争の国"アメリカにもない、そしてアジアの新興国とも違う"島国・ニッポン"の魅力をぜひとも探したいものだ。

 

将来自分が学問をするのなら、テーマにしたい一つである。

 

 

サスティナブル(2)

*[サスティナブル]備えの程度。

震災や台風、そしてコロナウィルスなど、何かがあるたびに自分たちは「上を下への大騒ぎ」している。

そしてまた驚くほどその記憶が薄い。

史上最大の惨禍といえば第二次大戦だろうが、それも今リアルに伝えられているかとい

うと実に怪しい。

靖国神社とかメモリアル戦艦などを見学に行くととても再軍備とか核保有とかいう気にはなれないだろう。

それはともかく。

科学的には江戸以前から、周期的に起きる大地震がそろそろだというので「ある程度の備え」はしておくほうがよさそうだ。

ではどの程度の準備が必要か? というところが悩ましいが街中なら二週間分の備蓄(食料とトイレ)とバッテリーというところらしい。

今度はコロナ時のようにエッセンシャルワーカーも配置できないだろうし、上下水道もしばらく止まるという情報もある。

都会暮らしは「多種のサプライチェーンの集合体」なのでいろんなところで切れやすい、ということも分かった。

そしてチェーンが切れると、街中にいても途端に日用品が不足する、ということも何となく体感した。

最低限の線を狙い、けれど自分で暮らしが守れるだけの備えをしよう。

 

サスティナブル(1)

*[災害対策]程度の備え。

南海トラフ地震は中部の太平洋側が要注意らしい(東京は震度5予想)が、首都直下地震は都心が被災の中心でインフラが二週間ほどは止まるという。

台風や大雨でも年に何度かは停電などが起きているが、有事の混乱にはそれなりに備えておく必要がありそうだ。

これまで何度か報道されているが、特に高層の建物については想定外の不便が起きているから、都市機能の回復はもっと遅れる可能性が高いだろう。

 昨年秋の大雨で、千葉県に住む友人が「駅からマンションまで停電で真っ暗。しかもオートロックは開かず階段でたどり着いた部屋の中も真っ暗だった」と嘆いていた。

自分の住む部屋もオール電化で、電気の供給が止まると到底住めない。

 

コロナの影響で世界中のサプライチェーンが一時切れてしまったが、上下水道やインフラが完備している都会のシステムが、実は相当「偏った生活の仕組み」で運営されている、ということである。

SDGsなどと言っている都会の企業ほど、実はサスティナブルではないだろう。

今回のコロナ騒動を教訓に、自宅に数週間は篭れるような準備をしておきたいと思う。

 

それよりも地方に拠点を考えた方がより自然な気がします。