藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

他人の考えに学べるか。

まさか福岡さんのコラムから内田樹さんが引かれるとは。
知的な結びつきというのは案外「狭い範囲」で起こっているのかもしれない。

内田さんは哲学者であり武道家
その論旨にもどこか武術とか、格闘の匂いを感じる。
(だから人気なのじゃないだろうか)

最初の質問は、「責任を取る」とはどういうことか、というもの。
ニュースを眺めると不祥事だらけ、そこここに責任を取れという言葉が溢(あふ)れるが、人の死にかかわることや原発事故のように、個人のレベルをはるかに超えた問題について、人はどのように責任を取ればよいのでしょうか。

内田先生の答えはシンプル。
ほんとうの意味で、責任を取ることなど「不可能である」というのだ。

ではなぜ責任という言葉があるのか。
それは社会を安定させるために作り出された概念だから。
責任は誰かに押しつけるものではなく、自らが引き受けるもの(引き受けるという覚悟を示すもの)としてある。
「オレが責任を持つよ」と宣言する人間が多ければ多いほど、誰かが責任を取らねばならないような事態が起こりにくい社会になる。

そのあとの「赦しの理論」以降についてはまだまだ深い。
(自分もこれから著書を読もう)

それにしても福岡さんという先進的な科学者と内田さんという哲学者の触れ合い。
お互いが「相手の領域に入って感じること」は「異質の交わり」の最たるものではないだろうか。

自分たちは「ルーティン」で硬直しないためにも、ちょっと逆説的でも「異質」と触れ合うことをしないとたちまち硬化してゆくような気がする。

常に異質で。
常に未知と。
常に学びを。

優れた先輩たちから学べることは多い。

内田樹の解答 成熟の困難さ思い知る
 過去3週にわたって、「講義録を読む」という読書法を提案してきた。最終回の今回は、内田樹の『困難な成熟』(夜間飛行)をとり上げたい。この本は正確にいえば、学生・生徒を前にして内田先生が実際に講義を行った記録ではないが、次々と投げかけられる難しい「問い」に対して、内田先生が、ちぎっては投げ、ちぎっては投げ、淀(よど)みなくみごとな解答を与えていくスタイルはまさに講義録である。それにページを開くと最初に大きな黒板が描かれているので、やはり講義録として読める本だと思う。

 内田先生の講義には爽快感がある。まるで、将棋の名人が、何十人もの挑戦者を同時に相手にして、居並ぶ盤面の間を縫いながら全員を打ち負かすような感じ。それはどの解答にもくっきりとした「理路」(これは内田先生愛用の言葉)が通っているからである。やはり、先生はえらい、のだ。

 まず最初の質問は、「責任を取る」とはどういうことか、というもの。ニュースを眺めると不祥事だらけ、そこここに責任を取れという言葉が溢(あふ)れるが、人の死にかかわることや原発事故のように、個人のレベルをはるかに超えた問題について、人はどのように責任を取ればよいのでしょうか。内田先生の答えはシンプル。ほんとうの意味で、責任を取ることなど「不可能である」というのだ。

 いったん起こってしまったことを、なかったことにはできない。たとえ元通りに復元することができたとしても、それでは責任を取ったことにはならない。

 ではなぜ責任という言葉があるのか。それは社会を安定させるために作り出された概念だから。責任は誰かに押しつけるものではなく、自らが引き受けるもの(引き受けるという覚悟を示すもの)としてある。「オレが責任を持つよ」と宣言する人間が多ければ多いほど、誰かが責任を取らねばならないような事態が起こりにくい社会になる。

 質問者は食い下がる。では、誰も責任を取れないなら、被害者は泣き寝入りするか、司法に裁きを委ねて、個人としては加害者を赦(ゆる)すしかないのでしょうか?

 赦しについての内田先生の解答もふるっている。被害者の気持ちを「癒やす」ためには、加害者が自分の犯してしまったことの意味を「学ぶ」必要がある。そしておもむろに、古来、人間の集団に絶対的に存在した4つの柱について語りがはじまる。裁き、祈り、癒やし、学び、である。

 これをどんどん書いていくといくら紙面があっても足りないので、あとは本書を読んでもらうしかない。それにしても、もっと大人になれと言われ続けても、人は決して大人になれない。年を取るほどそう思う。成熟はほんとうに困難なのである。そんな真実を痛感させてくれる味わい深い良書だ。
生物学者