藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

変化を見る目。

産業革命の時はどうだったのだろう。
昔から、未来を正確に言い当てた人、というのは聞いたことがないが、いつの時代も「次」を予想するのは難しいのが摂理なのだろうか。

古代以来、人類の幾何学は円と四角形を区別してきた。
それらをあえて同一視する視点は、19世紀になってやっと芽生えた。
数学者は長い年月をかけ、かつて見ていた世界を思い出そうとしているのだろうか。

現代は、自分たちが思うに「もっとも複雑」だ。
少なくともそのように自分たちには見える。
政治も経済も国も宗教も、もう複雑すぎて、さらにかつてないようなテクノロジーの革命も進んでいるらしい。

ローマ帝国の歴史や、日本の戦国時代、江戸時代から「現代」を導くことはできただろうか。
後付けの理論でもっともらしいストーリーなら作れそうな気もする。

だとしたら、「今」からこの先も想像することはできるような気がする。

学ぶこと(マテーシス)は想起すること(アナムネーシス)だ」と喝破したのはソクラテスである。

どれほどの未来を想い描き、またこれからもどんどん変わっていくものはなんだろうか。
対して、「変わらぬもの」はなんだろうか。
今の時代、最も面白いテーマではないだろうか。

思い出す 森田 真生
1歳8カ月になった息子は、日々着々と新たな能力を身につけているが、大人と同じようにできることより、大人と同じようにはできないことの方が、近くで見ていて面白い。

 最近、数字の「1」を指して「いちぃ!?」と言うようになった(相変わらずほぼすべての発言が疑問形である)。試しに「2」を書いて見せると、同じように「いちぃ!?」と言う。「これは『に』だよ」と教えていると、次は「1」を見ても「にぃ!?」と言うようになってしまった。何度もしぶとく続けるうちに、先日ようやく「1」と「2」が読み分けられるようになった。が、今度は「3」を見て「にぃ!?」と言う。

 動物の絵などは驚くほど微妙な違いも見分けられるのに、数字の区別は格段に難しいみたいだ。考えてみれば、算用数字などごく最近の発明にすぎないけれど、動物はずっと前から地上にいたのだ。人間の認識の仕組みが、数字よりも動物の差異を見分けられるようにできているのは当然である。

 個人的に面白いのは、息子が「0」や「8」を「いちぃ!?」「にぃ!?」と言い間違えたことは一度もないことである。つまり、単純に数字を何でもごちゃまぜにしているわけではないのだ。

 数学的に言えば、「1」「2」「3」の形は、「0」や「8」の形と位相的(トポロジカル)に異なる。「0」には穴が1つあり、「8」には穴が2つある。他方で、「1」「2」「3」は開いた形をしていて穴がない。

 「柔らかい幾何学」とも呼ばれる「位相幾何学トポロジー)」という数学の分野では、「1」「2」「3」はどれも「だいたい同じ形(位相同型)」であるとみなす。実際、柔らかい素材でできた「1」なら、「2」や「3」に連続的に変形できる。だが「0」を「1」に変えようとしたら、どこかでぶちっとちぎらなければならない。「0」と「1」は、本質的に異なる形なのである。

 そういえば息子がかなり初期に覚えた言葉は「あにゃぁ(穴)!?」であった。「1」「2」「3」をいつまでも混同している息子は、ひょっとすると物の形状のトポロジーに注目しているのかもしれない。

 これがあながち妄想ではないと思わせる心理学者ジャン・ピアジェの研究がある。彼は様々な年齢の子どもを対象に、子どもの空間表象能力がどのように発達していくのかを調べた。例えば手で触れた物体の形を描写させる実験では、4歳以下の子どもたちは、しばしば円と四角形、四角形と三角形を混同したが、これらの図形を同一視するのは、まさにトポロジーの視点そのものである。

 長さ、角度、辺の数などの性質を把握できるようになる以前の幼い子どもは、空間や図形を表象する際、図形の繋(つな)がり具合や閉じ開きの有無など、トポロジカルな性質に着目しているというのが、ピアジェがこのとき出した結論である。

 古代以来、人類の幾何学は円と四角形を区別してきた。それらをあえて同一視する視点は、19世紀になってやっと芽生えた。数学者は長い年月をかけ、かつて見ていた世界を思い出そうとしているのだろうか。

 「学ぶこと(マテーシス)は想起すること(アナムネーシス)だ」と喝破したのはソクラテスである。息子が遊ぶ様子を見ていると、何か大切なことを思い出しているような気持ちになるのだ。

(独立研究者)