藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

達者が教えるもの。

ピアニスト、というか芸術家の書く文章には秀逸なものが多い。
同じ「表現」という行為だからか。
97歳のピアニスト、
さんの記事より。

気分が良ければ1日4時間ほどピアノに向かう。
楽譜にどんな物語が描かれているのか。
音と人間の心理の絡み合いを探っていると、あっという間に時間がたつ。

音楽って多分そういうことなのだろう。究極的には。
ちょっと次元は違いすぎるが「へぇー。バッハがこの指使いを指定していたのか」と思うとちょっと感慨深いものがある。

例えばエリック・サティの有名な「ジムノペディ」という曲。
メロディーが始まる前の4小節の繰り返しの和音をどう弾くかによって、全く違う曲になる。
さまざまなタッチを試していると、時折「ピアノがものを言う」と感じる瞬間がある。
「この音だね」と、ピアノが応えてくれるのだ。

自分には到底その境地は知りえないけれど、「そういう対話」とか「精神性」が音楽にはあるのだ、という事実はとても大切だ。

音楽学校時代、日本を拠点に活動したピアニストのレオニード・クロイツァー先生が、学生に対し「フォルテ」「ピアノ」とよく怒っていらした。
音を大きく、または小さくするだけではないニュアンスを言葉に込めているのに、当時の生徒には分からなかった。
私も欧州でヘルムート・ロロフ先生やヴィルヘルム・ケンプ先生に学び、演奏家として経験を積んでようやく理解できた。

ヴィルヘルム・ケンプ先生に学び、演奏家としての経験を積んでこそわかる世界」があるという深さが実に芸術の魅力だと思う。
同じことは美術でも建築でも文学でもあるのに違いない。
AIが話題の今、胸のすく話題でもある。

97歳 私はピアニスト 現役最高齢、戦時中デビューから現在まで日々「音」を探る 室井摩耶子

2018年7月18日 2:0

私は97歳のピアニスト。今も自宅で一人暮らし、気分が良ければ1日4時間ほどピアノに向かう。楽譜にどんな物語が描かれているのか。音と人間の心理の絡み合いを探っていると、あっという間に時間がたつ。

ピアノに向かう筆者

例えばエリック・サティの有名な「ジムノペディ」という曲。メロディーが始まる前の4小節の繰り返しの和音をどう弾くかによって、全く違う曲になる。さまざまなタッチを試していると、時折「ピアノがものを言う」と感じる瞬間がある。「この音だね」と、ピアノが応えてくれるのだ。

こんなことを続けてきて、私はピアノと結婚したのかもしれない。今までずっと独身で、現役最高齢のピアニストと呼ばれることもある。

♪ ♯ ♭日本代表で欧州へ

東京音楽学校(現東京芸大)を卒業したのは1941年、太平洋戦争開戦の年だった。ソリストとしてのデビューは45年1月。戦火のさなか、3日間の演奏会によく聴衆が集まってくれたと思う。最終日が終わって帰宅すると、空襲警報。会場の日比谷公会堂は遺体の安置所になった。

戦後、演奏活動を本格化、56年にウィーンで開かれたモーツァルト生誕200年記念祭に日本代表で派遣された。同年からベルリンに留学した。

当時は西ベルリンである。50年代はまだベルリンの壁ができておらず、パスポートを持って東ベルリンに楽譜を買いに行ったこともあった。東の方が物価が安かったのだ。61年には市内に有刺鉄線が張られ、一つの街が資本主義と社会主義に完全に分かれた。

♪ ♯ ♭

日本人としての気概

そんな時代、私は恐れるより、日本人としての気概を持とうと気張っていたように思う。ベートーベンのピアノ協奏曲を弾くため東欧のある国に行った時、老婦人に「日本人のあなたがなぜベートーベンを?」と問われた。「ベートーベンはドイツ人のためではなく、人間のための音楽を作ったのです」。そう答えた私の演奏が終わると、2階の客席最前列で猛烈に拍手をする彼女が見えた。

プロ意識もたたき込まれた。欧州で初めてマネジャーがついた時「ある場所で演奏会があって、1年後にもう一度呼んでくれたとしよう。そのとき演奏が成長していないと、二度と呼んでもらえないよ」と言われた。

巨匠カラヤンのリハーサルをのぞいたことがある。オーケストラの最後の音に「ナイン(NO)」を繰り返し、ようやく納得すると「ありがとう!」と去っていった。この人もたった一つの音をつかまえようとしている。さすがだと感心した。

♪ ♯ ♭

まだまだ弾き続けたい

ドイツでの暮らしは二十数年に及び、計13カ国ほどで演奏した。そして60歳を前に帰国。このままでは人間として成長しないと思ったのだ。海外で暮らしていると「あなたは外国人だから」と、どこか甘やかされるところがある。残りの人生は自国で地に足をつけて生きることにした。

80年に帰国してから、演奏に加え音楽の魅力をお話しする「トーク&コンサート」シリーズを始めた。102歳まで生きた父の介護も重なった。90歳を迎えたころ、都内の自宅を新築する。東日本大震災は新居に越した3カ月後。前の築80年の家に住み続けていたらどうなっていただろう。

欧州に行く前、今井正監督の映画「ここに泉あり」に出演した。実名の「室井摩耶子」というピアニスト役で華やかに弾いているが、当時から「何か違う」と感じていた。

音楽学校時代、日本を拠点に活動したピアニストのレオニード・クロイツァー先生が、学生に対し「フォルテ」「ピアノ」とよく怒っていらした。音を大きく、または小さくするだけではないニュアンスを言葉に込めているのに、当時の生徒には分からなかった。私も欧州でヘルムート・ロロフ先生やヴィルヘルム・ケンプ先生に学び、演奏家として経験を積んでようやく理解できた。

このように音楽は難しいが面白いことだらけ。昨年は転んで左足を骨折したけれど復活した。最期を迎えるのはまだ早い。(むろい・まやこ=ピアニスト)