藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

知らない街を歩いてみたい。

♬知〜らないま〜ちを 歩いてみーた〜い♩
*[次の世代に]気持ちの中の風景。
どこか現代の人の心理を突いているのか。
1962年というから、実に58年も前の作詞のことだ。
その当時の「旅」とは時間の感覚もずい分と違うはずだが、未だに「旅」への憧れは変わらないらしい。
人はいつもそれほど「気ぜわしい」のだろうか。
 
芭蕉の時代に遡っても同様の感覚が記されているのだとすれば、人のどうしようもない性を歌っているのかもしれない。
人はいつも「知らない何か」と向き合ってみたいのかもしれない。
冒険心とか、それこそが「癒し」なのだろうか。
 
そんな風に思えば、あえてどこかに行かずとも「心新たに」できそうな気もする。
元号が変わるのも、自分の気持ちの切り替えなのではないだろうか。
 
春秋
2019年4月26日 17:00
仕事に疲れると、口ずさみたくなる歌がある。 知らない街を歩いてみたい どこか遠くへ行きたい――。永六輔作詞、中村八大作曲で1962年に世に出た「遠くへ行きたい」だ。長く続くテレビ番組のテーマソングに使われ、世代を超えて愛され、なお命脈を保つ。
▼旅に出ること、未知の土地を巡ること。それは気ぜわしい日常を転換し、心をリフレッシュする特効薬だ。この曲が長く歌い継がれてきたのも、旅への憧憬をたしかな言葉でつづっているからだろう。「予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず」。芭蕉の願望は現代人の胸の奥にも脈打っている。
▼10連休が始まった。旅先や車中で小欄を読んでいる人も多いはずだが、さっそく片手に缶ビール、記事を目で追うのも普段よりゆっくりだろうか。あれもこれもと欲張らず、車窓の新緑に見とれるだけでもいい。「なんにも用事がないけれど、汽車に乗って大阪へ行って来ようと思う」。こう書いた内田百●(もんがまえに月)は旅の達人だ。
▼「遠くへ行きたい」の歌詞は、 知らない海をながめていたい――と続く。「ながめてみたい」ではなく、時間の経過を忘れて、見知らぬ海と向き合っているイメージなのだろう。昨今の旅の情報といえばグルメも温泉も、もっぱら「○○してみたい」。けれど、せっかくの大連休である。ここは断然「楽しんでいたい」。