藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

結局、学びでしかない話。

*[次の世代に]学びの場思考。
55年を経過して自分がいる。
今あらためて"何がしかの自分"がいるとすれば、その原因(というか発祥)は「周囲の環境」でしかないと思う。
幼児の両親から義務教育から家族や近隣や友人たちとの人間関係から。
社会に出たら「仕事」という存在を中心に、また「外部との関係」ばかりで育ってきた。
つまり外部がもしも「真空」だったらクラゲのような人間に仕上がっていただろう、間違いなく。
自分はまさに「外部との摩擦の代物」でしかないことに気づく。
生来の自分の能力や性質がどういうものだったかは定かではない。
なぜならそれはさっきの「外部との摩擦」でしか測れなかったから。

そして今の自分だって「外部との関係」でしかない。

山奥の秘境でこれから暮らしたって、そこでの環境と生きていくわけだ。
 
さて、あと長くて30から40年となりました。
そしてこれからも「外部との関係ありき」でしかいられない。
居酒屋に行くのは最高の学びだ、などと言いつつ。
 
仕事もあと何年従事しているかわからないけれど、すべてのシーンが「学びの場」であると理解できれば、少しは自分の態度だって変わりそうだ。
「利害や感情のぶつかり合い」だと思って他人に接するのと、「学びの場」と心して挑むのでは心構えからして違う気がする。
友人とも家族とも、居酒屋の亭主とも「こここそ学びの場」と思って接しようと思っている。