藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

自分は悲しい。

*[次の世代に]考えるために
ほぼ日より。
自分の行き詰まり、について。
余命宣告を受けている幡野広志さんの発話が起点になっている。
いつ、どういうときに考えたのかは知りません。
たぶん、と、勝手な推察をさせてもらうなら、
「痛かったり、悲しかったり、迷ったりしたとき」に、
その場所から考えがはじまったのだと、ぼくは思います。
 
あらゆる疑問は、あんまり快適なところからは、
発生しないように思うのです。
考えざるを得ないというのは、少し悲しいことです。
そうだ。
「なーんも考えなくていい日常」というのはある意味幸せだ。
苦しい思いがないから。
 
けれどそれだと「次への一歩」がなくなる。
そこにただとどまっていればいいから。
自分の現在を見れば見るほど「自分は何なのか」を考え、苦しむ。
「だからそこから動こうとする」のが人の本質なのだろうか。
逆境こそが人を育てる…という先輩たちの声がこだまするようだ。
 
 

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・これは、なんなんだろう。
おれは、いまなにをやっているんだろう。
こいつは、どこからきたんだろう。
どうして、こういう考えになったんだろう。
ここから、次の一歩をどこに踏み出せばいいのだろう。
なぜ、この人はこう言うのだろう。
もともと、これは、なんだったんだろう。
この考えは、どこらへんから行き詰まっているんだろう。
だいたい、おれはなにがしたいんだろう。
どうしたら、この人はよろこぶのだろう。
このいさかいは、どうしたら解決するのだろう。
このことは、もう動かしようがないのだろうか。
 
文字で、一行ずつ書いたら読み飛ばされてしまうような、
ただの疑問を並べただけの文なのですが、
思えば、こんなふうななにかしらの疑問を、
人はずっと考えているのかもしれません。
考えてばかりいたら、なにもできなくなりそうですが、
なにかしながらでも、考え続けることはできます。
 
先日、公開の場で、幡野広志さんと話して、
また「この人は、このことについて、いまじゃなくて、
もっと前から考えていたんだろうなぁ」と思いました。
それは、彼のやっている「人生相談」の
回答の文章を読んでいても、いつも感じていることです。
どういう必要があったから、なのかはわかりません。
あるいは好奇心だとか探究心だとかが、
その動機なのかもしれませんが、そこここに、なにか、
「そのことについて考えた形跡」があるのです。
いつ、どういうときに考えたのかは知りません。
たぶん、と、勝手な推察をさせてもらうなら、
「痛かったり、悲しかったり、迷ったりしたとき」に、
その場所から考えがはじまったのだと、ぼくは思います。
どうして、そう思うかというと、
不肖わたくしが、そうだから、と言わざるを得ません。
 
あらゆる疑問は、あんまり快適なところからは、
発生しないように思うのです。
考えざるを得ないというのは、少し悲しいことです。
…また、「あはれ」みたいなことを考えてしまった。
 
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
へたの考え休むに似たりとも申しますが、どうにもねぇ。