藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

失敗の本質。

*[次の世代に]少しの無理を重ねて。

ほぼ日より。
失敗の話。
失敗が尊いのは「失敗そのもの」にあるのではない。
失敗は失敗である。
尊いのは「失敗するほどにまでチャレンジしたこと」だろう。
 
黙って保身していれば失敗して批判されることもないのに。
それでも「チャレンジせずば、成功などない」ということが身を以て感じられるかどうか。
要するに「自分に少し無理を強いている」ということを我慢できるかどうかだ。つまり
「そういう状態こそが成長には必要だ」と感じられるかどうかだろう。 
楽したり、無理したりしないでも当分は生きていけるかもしれない。
けれど自分なりの強さとか、特徴とかを持ちたいのなら、失敗と引き換えにしても「少しの無理」を自分に課せるかどうか。
 
まあ「外で元気に遊んで、ちょっと転んで擦りむいて」くらいの気持ちが必要なのだ。
失敗したくない、という保身の気持ちが冒険を封じ、自らを萎縮させて最後には戦う力そのものが衰えてしまう、というのはよくある歴史のエピソードである。
向こう傷を恐れてはいけない。
 
今日のダーリン
・よく、「失敗」が大切だと言われるのだけれど、
どうしてそれが大切なのか、
じぶんに説明できたことがあったろうか。
人には言える、平気で言えるし、信じつつ言える。
「失敗が、なにより大事な経験になる」と説ける。
 
しかし、じぶんの失敗については、
納得しないままに「失敗も経験だから」と、
慰めるように、あるいは半ばあきらめたように、
思いこむことが多いような気がする。
 
ずいぶんと大人になってから、
「失敗」が大切な宝であることが、わかるようになる。
いろんな大人が、それを教えてくれると思うが、
ぼくにとって、いちばん簡単な説明とはこういうことだ。
「失敗は、やろうと思ってできないから」、これだ。
やろうと思ってする「失敗」、というものはない。
やろうと思って、うまく「失敗」ができたとしたら、
それは、ただの「計画の成功」だ。
だれも「失敗」なんかしたくないし、
どうやって「失敗」しないかさんざん考えているのに、
してしまうのが「失敗」だ。
つまり、「失敗」というやつは
うまくいくための「計画の網の目」をかいくぐって、
やっと出現してくれる「貴石(奇跡)」なのである。
 
「失敗」と出合って、そこで終わりにならなければ、
(できたら元気に)生き続けてさえいたら、
「あの失敗があったおかげ」に気づくことになるだろう。
あらゆる周到な計画も、いかにもでっかい夢も、
「失敗」という宝に出合えぬままでは、
ありふれた「ただの成功」にしか届かないだろう。
 
「失敗」という「貴石(奇跡)」は、
運命と呼ばれる「つながり」のなかにあって、
ひときわ輝く宝石である。
ほしいと思っても与えられぬ宝の石だ。
こんなものさえなかったらと忌避されていたのに、
それがあったからこそ、すべてがつながってくれる。
「失敗」のある人生にこそ、感謝と歓喜を。
 
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
気取って書いてますけど、なにかあったわけじゃないです。