藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

記憶を伝える

*[次の世代に]二度と無くせるか。
老人ホームでお年寄りと話す機会があると、戦争体験を聞くことが多い。
東京の神田近辺の空襲の様子などはリアルで「こういう話が聞けなくなる」というのは誠に惜しいと思う。
当たり前だがリアリティが違うのだ。
「(家の)筋向かいに焼夷弾が落ちてな」
「燃え広がったのですか」
「違うよ。爆風で飛ばされた。そのあとは火事の風で暴風が吹いた」
「家と人が焼ける匂いの中で寝たんだよ」
そんな話がいくらでも出てくる。
 
あと十年もすればリアルに戦争を知る世代はほとんどいなくなる。
生き証人がいない中で「どこまで戦争を避けられるか」は戦後世代への宿題だろう。
少々お金がかかっても、VRやARで戦争体験を再現するような試みも大事ではないだろうか。
完全に戦争を知らない団塊の世代やその後のミレニアル世代とかがどんどん増える中で、いよいよ戦後世代が試される時代なのだと思う。
 

f:id:why-newton:20191003164414j:plain

 
 
以下、長い記事ですが引用しておきます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

田川基成

「経験者が戦争の悲惨さを教えてやれ」田中角栄の言葉に突き動かされて――藤井裕久の使命感

8/19(月) 7:14 配信

「戦争を知らないやつが出てきて日本の中核になったとき、怖いなあ」――。田中角栄元首相にそう言われたという。その言葉が私の根っこにあると語るのは、藤井裕久・元衆議院議員(87)だ。大蔵官僚から国会議員になり、自民党新生党民主党などを渡り歩きながら、常に政界の中心にいた人物である。藤井さんは2012年に政界を引退した後も、全国各地に足を運んで戦争体験を語っている。なぜ、そんなことをしているのか。その思いを聞いた。(河野正一郎/Yahoo!ニュース 特集編集部)

東京の空に爆撃機

東京・白金台にあるマンションの3階。エレベーターのない急な階段を上がると、藤井裕久事務所がある。政界引退から7年、87歳になったいまも、藤井さんはこの事務所に毎日のように通っているという。「足腰の鍛錬ですよ」。そう笑う藤井さんには、一つの使命感がある。

――政界を引退した後、戦争体験を語る講演を全国各地で続けているそうですね。

つい先日は青森へ行きました。いろいろと声を掛けていただけるので、週に1回ぐらいは、戦争の話をしています。思いはたった一つ。次の世代の人間にわれわれと同じような経験をさせたくない、と。それだけです。特に若い人に伝えたいという思いがあるんですが、実際のところ若い人の参加者は少ない。それが少し残念ですね。

 

(撮影:田川基成)

――藤井さんが戦争を意識したのはいつごろですか。

私が生まれた1932(昭和7)年は五・一五事件(海軍青年将校らが首相官邸を襲撃し、当時の犬養毅首相を暗殺した反乱事件)があり、1936年には、二・二六事件(陸軍の青年将校らによるクーデター未遂事件)が起きました。政情が不穏な時期です。でも幼いころですから、もちろんピンときていません。

実際に「戦争」を感じたのは、真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まった翌年の1942年です。当時、私は東京・本郷に住んでいて、4月のある土曜日に母親に手を引かれて近所に買い物に行くと、それまで見たこともない爆撃機が空を飛んでいるのが見えたんです。すごく大きくてね。それを見て、「日本にはこんな立派な飛行機があるんだ。すげえなあ」と思っていたら、爆弾や焼夷弾をボコボコと落としていった。それが、米軍が初めて日本本土を空襲した「ドーリットル空襲」(4月18日)だったのです。

藤井裕久さんは、大蔵省(現・財務省)出身で大蔵大臣、財務大臣を経験した政治家だ。1932年、東京都生まれ。文京区本郷で結核の専門医として医院を開業した父と、その手伝いをする母に育てられた。「戦時中とはいえ、経済的には恵まれていたと思う」というが、そんな藤井少年の身近にも戦火は及び、家族は離ればなれになっていく。

 

(撮影:田川基成)

――当時、ご家族はどんな暮らしでしたか。

親父は医者で、患者がいるので戦時中もずっと東京に居続けました。母はその手伝い。医者はだいたい、疎開をせずに残ってましたね。

慶応(義塾)の大学生だった兄は、1943年に学徒出陣して横須賀のすぐそばの海兵団に配属されました。その年の暮れだったか、母と私と弟と妹の4人で逗子の海岸で兄と面会したときのことは、よく覚えています。もともと気が強い性格だった兄が、しばらくぶりに会うなり、「何とか生きているよ」「頑張っているよ」などと言いながら、ぼろぼろ泣きだしてね。ガラッと変わった兄の様子を見て、「軍隊は、えれえ大変な世界なんだ」と子供心に感じたものです。

翌年になると、戦火が激しくなってきたので私は学童疎開し、弟と妹は親類を頼って岡山に行きました。

B29の墜落現場で見たもの

――疎開先の生活はどうでしたか。

疎開先は、いまの東京都小平市でした。当時、私は東京女子高等師範学校附属国民学校(現・お茶の水女子大学附属小学校)に通っていて、そこに学校の農園があったんです。ところが、すぐそばに中島飛行機(現SUBARU。当時は日本有数の飛行機メーカー)の工場など軍需産業の施設があったので、頻繁に空襲がありました。そのときに肌身で感じた「爆撃」の恐怖は、忘れようにも忘れられません。

疎開先の学校の農園には畑があるので、「イモは食える」と言われていました。実際、畑でサツマイモは採れたのですが、食べたのは真っ白でガリガリ。湯がいて食べてもガリガリ。冠水イモですね。同級生に、後に日本興業銀行(現・みずほ銀行)の頭取になった西村正雄君がいたんですが、彼とは食べ物の話しかしなかった。ある日、僕が「オレたち、またお汁粉を飲めるかな」と言ったら、西村君が「死んでいるから駄目だろう」と答えたのを覚えています。僕らは、もうすぐ爆撃で死ぬと思っていました。

 

東京大空襲後の銀座(写真:近現代PL/アフロ)

――それほど空襲が多かったのですね。

確か1945年の1月だと思いますが、疎開先の上空に米軍の爆撃機B29が飛んできたんです。そこに日本の戦闘機が体当たりした。2機の飛行機は炎上しながら近くに墜落しました。まさに自分たちの頭上で起きたことです。

すぐに僕らは先生の了解を取って、墜落場所に走っていきました。女子も含めて数十人みんなで。理由は簡単です。食べ物があるんじゃないかと、それだけですよ。チョコレートが落ちてないか、と期待していました。ところが、そこにあったのは、はらわたがちぎれた遺体でした。悲鳴を上げたり、泣いたりする同級生もいました。

そのときから僕は、こう思っているんです。「戦争というものには、戦勝国も敗戦国もない。みんな犠牲者なんだ」と。戦争に勝ったって駄目なんです。

新型爆弾をつくる「選抜クラス」

学童疎開先から本郷の自宅に戻ったのは、1945年3月10日の朝。未明に東京大空襲があった、その直後のタイミングだった。もともと日程は決まっていて、その前夜、東京都心のほうを見ると、空が真っ赤に染まっていたという。

 

(撮影:田川基成)

――自宅は大丈夫だったんですか?

うちも焼けてしまったかも、と心配しましたが、その日の空襲で狙われたのは下町でした。東京を標的にした大規模な空襲は4月、5月にもあり、4月13日の空襲では、うちの隣の家まで焼けました。

とはいえ、毎日が戦争一色というわけではないんですよ。私は4月から東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大附属中)に入学したら、野球をしていました。一般的にはストライクを「よし」、ボールは「ダメ」と敵国語の英語を使わずに試合をしていたと言われますが、私たちはボール、ストライクと英語を使っていました。軍事教練に来ている軍人さんがノックしていました。

ただ、その後、この話はあまりしたくないのですが……。5月25日に「特別科学組」という組織に入れられて……。

――なんですか、それは?

最初の授業で、理化学研究所の偉い先生が講義に来て、こう言いました。「君たちは新型兵器をつくる先兵なんだ」と。それは当時、日本で物理学の大家だった仁科芳雄博士でした。そのとき新型兵器が何なのかの説明はありません。自分も、何のことだかまったく分からなかった。後になって、仁科博士は日本の原子爆弾を極秘に研究開発していたと知りました。

――そこから実際に原爆の研究が始まったのですか?

特別科学組は、学校から30人が選ばれて石川県金沢市に移り、僕らは微分積分の勉強をしていました。原爆を造るどころじゃないですよ。みんな中学生ですから。後になって、本当に日本ってバカだったなと思いましたよ。米国は原爆の開発を終えていたのに、こちらは中学1年生に微分積分から教えているんですから。これでは戦争に負けるのは当たり前です。

 

仁科芳雄博士(写真:毎日新聞社/アフロ)

ただ、当時一番つらかったのは、原爆の話ではなく、ほとんどの友人たちが東京に残っていたことでした。空襲が相次ぐ東京では、きっと死んでしまう。金沢にいる自分たちだけが生き残ってしまうのか、と。

だから、言いにくいですが、金沢で終戦玉音放送を聞いたときは本当にうれしかった。助かったと思いましたよ。もうこれで、いつ爆撃があってもいいようにゲートル(すねに巻く防具の一種)を巻いて寝なくてもいいな、とも思いました。

戦後初の高校野球夏の大会に

――終戦を迎えて、金沢から東京に帰るわけですね。

玉音放送を聞いた2、3日後に汽車で東京に戻りました。汽車はぎっしり満員で、私はずっと立っていました。乗客はみんな何もしゃべらず、静かでした。明け方に上野に着いて、本郷まで歩きました。上野の街も静かだった。人がいませんでした。

家に帰ると、親父が「おう、帰ったか」って一言。それで終わり。とにかく寝るだけでした。空襲の心配がないから、ゆっくり眠れたことだけは覚えています。

――終戦後は、高校野球で甲子園に出場したそうですね。

昭和17(1942)年から中断されていた全国中等学校優勝野球大会(現・全国高等学校野球選手権大会)が、敗戦の翌年から再開されて、私たちの学校が出場したんです。その年の会場は甲子園ではなく、西宮球場でしたけどね。

私は2年生で、補欠のもう一つ下の食料調達係として西宮へ行きました。そして阪神電車に乗って移動していると、突然、若い女性が抱きついてきて、ぼろぼろと泣き出したんです。

彼女は「私は死ぬまで、この制服は見られないと思っていた」と言います。どういうことかというと、女性は東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)を卒業して大阪で先生をしていたんですね。僕たちの学校は、彼女の母校の隣にあった。だから、その制服を大阪で見かけて、涙が止まらなくなったんです。

女性は最後にこう言いました。「日本は平和になったのね。うれしいわ」って。改めて平和のありがたさを感じましたね。

 

玉音放送を聞く人たち=東京・四ツ谷(写真:毎日新聞社/アフロ)

歴史観なくして政治を語れない

その後、藤井さんは東京大学法学部に進み、1955年に大蔵省に入省。田中角栄政権の二階堂進竹下登官房長官の秘書官などを務めて1976年に退官。翌年の参院選に立候補して当選、1990年に衆院議員に転じた。1993年、細川護熙連立政権で大蔵大臣に就任した。以後、民主党(当時)などで要職を務め、2012年、80歳で政界を引退した。

――民主党代表代行時代の2005年、日本の近現代史を再検討する「日本の近現代史調査会」を座長として立ち上げました。

民主党代表だった岡田克也さんから「靖国参拝などでもめることが多いが、本当の歴史観を持たずに議論してはいけない。藤井さん、何かやってくれませんか」と持ち掛けられたのがきっかけです。

私の根っこにあったのは、角さん(田中角栄元首相)の言葉です。角さんはよく、こう言っていました。

「戦争を知っているやつが世の中の中心である限り、日本は安全だ。戦争を知らないやつが出てきて日本の中核になったとき、怖いなあ」

そのころ、角さんとはたいへん親しくさせていただいていたので、私が「また戦争をやれっていうことですか」と軽口をたたいたら、ものすごく怒られた。「そうじゃない。絶対戦争なんかダメだ。だから、経験者が戦争の悲惨さを教えてやれ」とね。

私の中には、歴史観なくして政治を語れない、という思いが強くあります。それで歴史家を招いて、明治から勉強を始めました。その成果は『日本の近現代史述講 歴史をつくるもの(上・下)』(中央公論新社)にまとめてあります。

 

1977年、参議院議員に初当選。右は福田赳夫内閣総理大臣(当時)(撮影:田川基成)

――いまの政治家はきちんとした歴史観を持っていると思いますか。

戦争を美化する風潮が強すぎると感じます。極めて危険だと思います。

いま世界の状況は、日本が戦争に至る直前の昭和初期と非常に似ていると思います。英連邦は1932年に連邦内だけ関税を安くするオタワ協定を結びました。保護貿易主義です。さらに同時期、英連邦、米国が金本位制を離脱して通貨安を誘導させました。

最近の米中貿易戦争で起きている現象は、保護貿易・通貨安を引き起こしています。まさに昭和初期と同じだと思います。戦争にならないように祈るだけです。

――北方領土を戦争で取り返す是非に言及する国会議員がいる現状を、藤井さんはどう見ていますか。

角さんも言うように、また戦争をやったらダメだと、教えることしかない。教えてもらったことと、経験したことでは、大きく違うのは分かっています。でも、これが大事なんです。教えることで頭の体操をしたり、想像力を働かせたりして分かっていく。だから、私にできることは体験を語っていくこと、それ以外にないのだと思います。私はやりますよ、死ぬまで語っていきます。

 

(撮影:田川基成)


河野正一郎(かわの・しょういちろう)
1967年、東京都生まれ。早稲田大学法学部卒業後、朝日新聞社に入社。東京・大阪両本社の社会部記者を経て、AERA週刊朝日両編集部で副編集長。2016年からフリーランスに。ネットメディアなどに記事を執筆するかたわら、書籍の編集を担当。

[撮影]田川基成