藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

気づく若者(1)

*[次の世代に]落第推奨。
ほぼ日より。
ぼくは、少し遠慮がちにですが、大学生の人なんかに、
「落第とか留年とかは、したほうがいいね」と、
言ってやりたいと思うようになりました。
とても共感する。
そして今の五、六十代の人たちからも、そういう話を妙によく聞く。
多分「時代の感覚」がそんな風に変化しているのだと思う。
どんな風かというと「大体の無難な成功コース」みたいなものが崩れてしまったからだろう。
インフラとかの豊かさも上がっている。
公衆トイレにウォシュレットがつく時代だ。
 
そこで「特にやりたいわけではないこと」に時間を費やす「年寄りたち」を見ていた若者は、
「俺はやりたいことをやろう」と考え始めたわけだ。
だっていろんな大人に聞いても「今の仕事はいい仕事」「社会の役に立っている」「やりがいはある」って答えるのに。
だのに街中の人たちの「面白くなさそうな顔」はどうしたことだ?
ということに若者は気づいたのだと思う。
それほど、「楽しそうな大人」って見かけなくはないだろうか。
(つづく)
 
今日のダーリン
・こんな年齢になってから、いまさらの話をします。
ぼくは、少し遠慮がちにですが、大学生の人なんかに、
「落第とか留年とかは、したほうがいいね」と、
言ってやりたいと思うようになりました。
 
遠慮がちにと、あえて付け足したのは文字通り遠慮です。
人生に対する考え方はそれぞれにあるでしょうから、
ぼくが思う「いい」を、人も「いい」と思えるかどうか、
わからないので、文に「逃げ」を入れているだけです。
「息子の人生をダメにしたら責任とってもらえますか」
みたいなことを言われたらかなわないからです。
 
とか、言ったうえで続けますが、
「落第とか留年」あるいは「退学」は、
卒業してからではできないことです。
もう卒業してしまったら、取り返しがつかない。
それまで歩んできたまっすぐな道の、
外れようなのか、曲がりようなのか、戻りようなのか、
それを経験することになるわけです。
このことを挫折と呼ぶ人もいるでしょうし、
失敗ととらえることもあるでしょう。
どのみち「価値観」を問い直す機会になると思うのです。
逸脱だか挫折だかを軽く経験することで、
ぬかるみに迷い込む場合もあるでしょうし、
いままでと別のおもしろさを知ることもあるでしょう。
どちらにしても、不安と期待が増えそうです。
そして、その分以上に自由を見つけることにもなります。
線路の上だけを走る電車のようにではなく、
広い道狭い道、道のない道を行かざるを得ない
自動車のような動き方を覚えるかもしれません。
 
とにかく「勉強ができる」ということだけが、
なによりいちばんの価値だという考えから、
すこしでも解き放たれることは、大チャンスなのです。
ぼくのこの考えは、昔よりいまのほうが言いやすい。
決まった勉強でいい点数を重ねていったら、
人に認められて幸福を手に入れやすくなるということが、
昔よりもずっとやりにくい社会になっているからです。
いま、ぼくに大学生の息子がいたら、きっと、
留年とか退学とかしないかなぁと期待してると思います。
 
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
失敗や挫折は狙ってはできないけど、運よく得られるもの。