子供のころ好きだったヒーローのフィギュアとか。
出して遊ぶともったいないので、ほぼオールタイム箱に飾って眺めていた。
友人はそれを公園の砂場にはめたり、放り投げたりして真黒にして遊んでいるのを眺めていたものだ。「あーあ、あんなに汚して」と。
それで、数か月も経つと、ヒーローは次のヒーローに取ってかわられ、自分があれほど大事にしていた「箱の中のフィギュア」は限りなく無価値になった。
そんなふるまいを、ごく最近までしていたのだ。
例えば高い服を買って、ほとんど着ずに流行遅れになること、ほぼすべて。
そして普段着には超安ものを身につけている。
あの大事にしていたペリカンの万年筆は一体何回使ったか。
小林秀雄全集とかも、なんか飾り物のような気がして(一冊9000円もしたもの)、なんだか汚れそうであまり手に取ってないし。
道具や洋服など「使い倒してナンボ」だという真理に気付いたのは最近だ。(嘆)
もうそんな生活はやめよう。(誓)
学生時代、は「遊ぶための金」が欲しかった。
社会人になって、給料がもらえるようになったら、「あまり遊びたくなくなって」いた。
社会人になったら、着るものとか、車とか、住む部屋とか、「そんなもの」に関心が移り。
いい部屋に住み、いい車に乗りたい、と。
で、ある程度の部屋に住めるようになったら、住む部屋など「ほとんどどこでもよい」という気になり、物的なものから興味を失う。
ずっとそんなだ。
未来予想図
で今はどうか。
そんなに経済的な余裕はないので、そういう「ゆとり」があったらなァ、と思う。
で、そうなったとする。
多分、そんな「ゆとり」に興味がなくなっているのだ。
「常に旬を逃がす男」そんなイヤなタイトルが脳裡に浮かぶ。(汗)
しかし、そう何度もおなじ轍にハマってたまるか。
な、なんとかこの「旬のがしスパイラル」から脱出せねば。
ということで、今後は「そうなったら」の先を考える。
なかなかに楽しくもある。
一ミリずつでも進歩を。