あらばよし

*[ウェブ進化論]空想の産物。

ソリューションという言葉をIT業界で流行らせたのはIBMだが、確かに90年ごろから「問題解決」とか「提案」という言葉がビジネス界で使われ始めた。

「売り上げが伸びない」とか「人件費が高い」とかいう会社の問題を「コンピューターが解決します」という。

それまでは"ただ計算が速い機械"だったコンピューターが「あなたの会社の業績を伸ばせますよ」というアプローチは、けっこう目から鱗で、営業マンたちはこぞってこの言葉を提案書に使ったものだった。

それはともかく。

 

問題を解決するのも大事だが、それでは「問題ありき」だ。

問題がないところには解決もない。

そこで「逆さまのアプローチ」として"あったらいいな"を考えてみる。

 "あったらいいな"は、問題でないところに問題を見つけることだ。

通勤しないで済むツールがあったらいいな。

実際に行かなくても旅行できる道具があったらいいな。

特に困っていることでなくても、今までは「当たり前」と思っていたようなことでも「あったらいいな」を空想してみる。

狙いはやっぱりIT技術系だろう。

 「(手や音声じゃなく)思ったことを入力できたらいいな」とか

「大体の手書きがスライドになったらいいな」とか。

「運動不足や栄養不足をそれとなく知らせて欲しい」とか。

そのうち「そろそろ転職したらどうですか」とか教えてくれるかもしれない。

 

でも大体のことは今の技術でもできそうだが…

なくならない日記帳

 *[ウェブ進化論]ブログの効用。

はてなからお知らせがあり、「過去の記事を振り返りませんか」とある。

ちょっと嫌な予感がしたがクリックしてみる。

why-newton.hatenablog.com

 今の状態と何一つ変わっていないようなことが書いてある。

つまりまったく進歩してない。

長年にわたってブログを記す、というのは「バラバラにならない日記帳」のようなものだと思う。

 もはや人様のことは関係ない。

5年、10年、20年と振り返ってみると自分の考えの「変節や愚かさの具合」が分かるというものだ。

読者が増えないと悩むことなかれ。

自分のためのメディアなのだ。

ウェブ上に残す書き物など浜の真砂か、いや宇宙の塵のような気がしていたが、それは「外と比べる」からそんな気になる。

まだまだ修行が足りてません。

 

まるで水を飲むように、今日もブログを書きましょう。

 

 

無料は消費

*[次の世代に]セミナー食い。

先日のアートにエールをではないが、ネット上の「コンテンツの波」が第三波か、いや第四波かというくらいに増えている。

(この先6Gの時代には三次元コンテンツとかになるのだろうか)

コロナのおかげで、世界的に「無料セミナー」が増えて、最初は喜んでいたものの、それどころでもなくなってきた。

毎週毎週手当たり次第に申し込みをしていたら、気がつくと「週5でセミナー」になっている。

書籍と同じだ。

"セミナーエントリー"が目的になってしまっている。

「次世代サービスの予想」とか「DXが士業に起こす次の波」とか刺激的なタイトルが並んで目移りしている。

 以前は有料で、会場まで出かけなきゃならなかったものが「無料でオンライン」ということに感(かま)けていた。

 

セミナーに喰い殺されるところである。

こちらは書籍と違って「よりセミナー後の有料サービス」へと導線がきっちり張られていることが多いので、油断しているとその仕掛けにかかってしまう。

 

これから先は、本当に自分が取り組みたいテーマ以外の「トレンドもの」のセミナーは除外するようにしていかねば。

本は黙って積まれているだけだが、こちらはどんどん時間を食べに来るから。

 

自然の中で

*[次の世代に]ずっと続く塞翁が馬。

人間万事塞翁が馬とか、禍福は糾える縄の如し、とか言う故事成語が、まったく現代にも通じるあたり、人間の本質は全然変わっとらんのかい、と思う。

 侵略戦争花盛りの19世紀ならともかく、戦争の少ない今の時代にも思いがけないことは次々に起きることに驚く。

 

むしろ100年ほど前には、結核や疫病に加えて、先進国がみな本気で戦争していたのだから、その大変さを察するに余りある。

今のコロナ禍の中で中国が攻めてくる、とか想像するだけでしんどい。

 

今の日本だと、財政ネタ以外で本当に危機的なことの第一は、天災の類だと思うが、これだけ科学が進んでいても、まるで「神が差配している」かのごとく人間に難儀が降りかかるのは、もともと生き物にはそうした「一定率の負荷が必ずかかるようになっている」のだという気すらする。

 

塞翁が馬、はこれからもずっと続くので「そういうこと」をあらかじめ分かって、いろんなことを段取りせよ、ということだろう。

原発にしても地震にしても台風にしても温暖化にしても、みんな"想定外"だった。

そして想定外はこれからも必ず起こる。

それも生命に関わるような。

なので、災害とか事故とか病気とか、そんな「予期できないことが、いつあるかも」というつもりで生活していく必要があるのだと思う。

 

戦争もなく、でもここ何十年かの災害や今回のコロナ騒ぎを見ていてようやく「突然は実は突然でもない」という風に思うようになった。

 

突然は、実は自然なのだろう。

依存の覚悟

*[ウェブ進化論]デジタルの信頼。

頼まれていたプレゼンの資料をパワーポイント で作り出していた。

久しぶりで、テンプレートの作り方とか、新しい昨日などに戸惑いながらもスライドを20枚ほど。

 

一段落して、データを保存してPDFで送る準備をしていた矢先。

どうもパワポの挙動がおかしい。

何かデータが「すべって」いる感じだ。

慌てて再度"保存"して見てみると。

なんとそこには「テンプレート一枚」しか残っていない。

 

バクバクと動悸が上がってくる中、いやまてまて。

消えたように見えても、ちゃんとどこかに残っているはずだ。

これまでにもあったことだ。

 

順番にハードディスクを調べていくが、形跡はない。

あれほど途中途中で「保存ボタン」を押していたのに。

ちゃんと気を使っていたのに。

ややこしい図形やアニメは使っていないのに。

・・・

そんな恨み言をいいながら、正気に近づく。

「今十時だから、"まっさら"からやれば多分二時間くらいで終わる!」

で作業終了は午前0時半。

思い出しながらスライドを再生するうちに「あ、これはいらないないな」とか「ここは省いてしまおう」と編集しながらで20枚のスライドは12枚になった。

 

ファイルの破損があったことで、結果的にはスッキリとまとまったわけだが。

どんどんペーパーがなくなる中、デジタルデータの保存には「注意しろよ」と言われた気分だ。

 

凝れば凝るほど、失うものは大きい。

「あまり凝らない」というのも工夫の一つだと思う。

 

 

人間の責務

*[次の世代に]彼も災難。

街中で飼われていたニシキヘビが逃げ出したという報道があった。

体長が3.5mもあるというから、出会えば相当恐ろしい。(怖)

街中で遭遇したら、果たして自分は逃げ切れるだろうか…

 

しかしそれも、逆から考えればどうだろう。

ニシキヘビ君からすれば、飼われていた水槽から出てしまったものの。

単身、街中に出てしまっている、その気持ちはどんなものだろうか。

 

恐らく、我われが街中でニシキヘビに遇う恐ろしさとは比べ物にならないくらい「彼から見た外の世界」は怖いものなのではないかと思う。

どこまでも続く土管やアスファルトの道の上で、一体どこを目指せばいいのか。

 自分たち人間が、ジャングルに迷い込んだとき以上に、ニシキヘビは困惑しているのではないだろうか。

そう考えると、彼ほど孤独な状況はない。

 

都会の真ん中に彷徨い出てしまい、山の中で餌を捕るようなことも叶わずに孤独に暮れているような気がする。

飼育していた「人間側」の責務としても、早く見つけて保護してあげたいものだと思う。

趣味とはいえ、そのまま野に放ってしまうのも難しいだろう。

人間が行う行為には、その後のいろんな責任がついて回るものなのだ。

 

お互いの無事を祈る。

対話の要諦

*[次の世代に]構造はシンプル。

例え地球に隕石が迫っていようとも。

「彼女に告白したものかどうか…」と悩む。

「自分の前髪を切り過ぎた」のが一番気になる。

「その人にとって最大の悩みは、その人にとって最大の問題である。」という名言を聞いたのは学生時代だが、まったくその通り。 

ずっと心の中に残っている。

それはともかく。

 

自分たちはその時々に「自分なりに」悩む。

はたから見れば「大したことないって」ということでも、当人は絶望の淵にいたりするものだ。

 つまり、「相手の気持ちを察することができるほど」に、お互いのコミュニケーションはうまく行く、ということになる。

逆に"コミュ障"と言われるような状況は、「違いが相手の気持ちを理解していない」ということだ。

で。

これは逆から考えれば「うまいコミュニケーションの極意」ともいえる。

 会社でも家族でも交際相手でも。

「相手の気持ちが"適確に把握"できていれば、まず失敗することはないのだ。

さらに言えば「相手の気持ちが分かっていない」ことが最大の問題なのだ。

 自我を抑えて。

まず相手の心中を察する。

それを理解してから、ようやく自分の番が来る。

コミュニケーションは難しいようだが、実はそれほど複雑なものではない。

中期視線

*[次の世代に]少し長い目で。

自分たちはつい「決まりきった情報」をいただくことに慣れているから、例えば「コロナは風邪程度だ」とか「基礎疾患は注意だ」とか「変異株が出た」とかいう情報に翻弄される。

今はネットで情報の伝達がものすごく早いから、「どんな情報も極端に拡散する」ということを今回自分たちは実際に体験した。

 事件や事故の報道ならともかく、コロナは何者か、というまだ「確定的な正解がない中」では皆が感情的に、さらに功利的にものをいうから混乱の程度は酷いものだ。

 

自分も騒ぎの最中にいて思うが、こうした時には「確定的な正解」を追おうとせずに、できるだけ「数年程度の中期的な眼」でものごとを考える方がいいのじゃないだろうか。

短期的にオリンピックがどう、今年の冬がどう、というから予測もブレる。

予測がブレると、"それ"をあてにしていた自分の行動もブレる。

「どうせ不安定なこと」に一生懸命反応しても疲れるばかり。

そんなことを自分たちは今回体験している。

昨年初めに「新型コロナだとしたら、収束には2、3年かかるだろう」という見方が結局正しそうな様子になってきている。

政治家の態度に一喜一憂するよりは、もう少しだけ中期に視点を移した方が、この先の航海は過ごしやすいのではないだろうか。

 

ただ刺激に反応するのは終わりにしよう。 

 

スタートライン

*[ウェブ進化論]ようやく、目を醒ます。

「所有」「支配」「競争」「独占」「利益」…

そんな言葉の「あふれっぷり」に驚いたのは、社会人になりたての年だった。

「うわー世の中の仕事ってみんなこんなに必死になってるんだ」と率直に驚いた。

何か(見たことないが)戦場を目の当たりにしたような感じがした。

「所有」という気持ちは元々あった。

自分の世代はまだまだ「いい車」が欲望のトップに君臨していた。

そして働き始めて10年もすれば「そろそろ家を買うか…」とか「そろそろ結婚して…」とあまり疑いなく思っていた 。

今思えば結構「巨大な同調的価値観」とでもいうか。

みーんな「そっち」を向いていることに、全然疑いを持たなかった。

 まさに昭和。

昭和の亡霊と言っていいと思う。

自分がその最中にいましたから、ええ。

 

そんな過去の「当たり前」が急速に変わる今。

つまり「これからのしたいこと」とか「これからのかっこいいこと」が人それぞれになる時代がきた。

 キョロキョロ周りを見回すのではなく、ちょっと首をかしげて「俺ってホントは何がしたいんだ?」とかいう不思議なことを、真面目に考える時代だ。

至極、真っ当じゃないですか。

 

歳を取った人はもちろん、若い人がそういう風に考えることが大事なことだと思う。

まああまり、シニアの自分たちがいちいち言わなくても、すでに若者の目はそちらに向いているようですが。

本当の自己選択

*[次の世代に]本音の時代。

最近「人生はサブスク契約のようなもの」という話ばっかりしていますが。

コウノトリが飛び立って赤ちゃんを届けるときに「お誕生おめでとう。あなたは85年のサブスク契約です」と聞かされたらどうだろうか。

 少なくとも、それを聞いた親は「すぐに保育園に入れて、4歳で幼稚園、小学校から大学まで、その後は一流企業に」とそれでも思うだろうか。

 

自分もつい先日までは「これまでの人生全部がサブスク契約で、その中は自由に自分で選んできたもの」という意識はなかった。

どこかで与えられたハードルだったり、世間の常識だったりに完全に「振り回されてきた」と思う。

 「これからの選択は、まったく自分次第なのだ」と気づいたのは最近のことだ。(嘆)

それもコロナ禍が、分厚いこれまでの「思い込みの壁」を崩していることが大きいと思う。

ベルリンの壁の崩壊が、世界中に起きているようだ。

 

そしてこれは、自分の「これまでの石頭」を変える絶好のチャンスでもある。 

老も若きも。

今なら「これまで、常識ですよね」ということも「私は違います」と、堂々と言っていい。

図らずもサラリーマンや大企業も、起業も、蓄財や投資とかも、家族や人間関係も「すべて私なりに考えていきます」と言える時代に突入した。

 

いよいよ本音で生きる時代の始まりなのだとしたら、ちょっと入り口は混乱しているけれど、いよいよ「多様化の時代の本番が始まる」のかもしれない。

 自分のサブスクは自分で使いましょう。

自分の契約の使い方

*[次の世代に]私のサブスク。

昨日、「生まれてからずっと誰にも均等に時間が流れていくことは、人の人生における"最大のサブスク契約"」だ、という話をした。

人間は生まれながらにそれぞれで、義務教育とかも関係なく、働いたり放浪したりするのが「一番自然な姿」なのかもしれない。

 つまり放っておいたら、かなり「てんでバラバラ」に(まるで電子のように)動き回る地球の生き物の中でも、

特に人については「ある規律」を定めて生きさせた方がいい、と人の祖先はどこかで気づいたのに違いない。

 人生は誰もが「自由なサブスク契約」で死ぬまでを生きるのだけれど、

誰かクレバーな人物が「サブスク契約の中身」に「色んな価値観とか報酬とか法律とか」を持ち込んでできたのが、今の自分たちの世界なのだ。

 

大体、日本人社会は「他人と違うことをするな」という同調圧力が強いと言われているが、欧米をみれば「競争こそフェア」とか「勝つためにはルールをも変える」とか「他人と違う新しいことだけを探せ」というのは、一見自由なようでいて「ものすごく強い"競争を是とする同調圧力"」ではないだろうか。

 

外人たちが、もうそれが目的のように「I have my opinion...」と発言するのを見ると、「君たちも何かの価値観に憑かれているよね」と思ってしまう。

 

欧米のエリートたちの中には、ものすごく稼いで忙しいビジネスマンが、急に仕事を止めて、まるで出家したように田舎の山奥や海辺に住んで隠遁生活を送る人がいるが、彼たちは「そういうこと」に気づいたのだと思う。

 

日本は均質の同調圧力が強い"和の国"だけれど、「同調か異調か」という二極化ではなく「本来のサブスクでやりたいこと」を探す自分らしさが何より大事なのだと思う。

 

自分のサブスクは自分で使おう。

消化の仕方を考える

*[ウェブ進化論]最長のサブスク。

先日、糸井さんのブログに

「いろんなサービスが"サブスク(定額制使い放題)"になっているが、サブスクって人生のことなんじゃないの?」というエントリー。 

 コロナでみんなが「これまでの当たり前」に疑問を持って、その「根源的な理由」を改めて考え出しているようだ。

「これからの生き方をゼロから考えよう」とか「本当はどんなことが幸せですか」と問うような発言は最近とても多い。

そして人生は、一回きり(あるいは1日きり)のサブスクなのだ、と思える。

時間が相手だから、まあ「強制サブスク」とも言える。 

けれど「サブスク的な契約」ではあるけれど、その中で「何をしなさい」というメニューの強制一切なく。

24時間を「好きにお使いなさい」と言われているようなものだ。

だから、考えようによっては「これからの時間の使い方は、おれ次第」である。 

「ベースの契約」はあるけれど、自由。

それが自分たちの人生だ。

だったらその"サブスク"の上でやりたいことを、これからやろうよ。

そんなことに、自粛のおかげで気付いたり。

コロナがなければこんな気持ちにはなっていなかったと思う。

 

いいことも悪いこともある。

で自分も、ずいぶん無駄にしてきちゃったなあと。

 

---------ほぼ日5/9より-----------

・わぁ。いま、ふと気がついちまったよ。
 じぶんで気がついたことなのに、びっくりしたよ。

 「サブスク」ってあるじゃない? 
 「サブスクリプション(subscription)」の略で、
 ある商品やらサービスを、ある期間、
 一定の金額で利用できるような仕組みのことですよね。
 一回につきいくらでもなく、どれくらい使ったらいくら 
 なんてことでもなく、期間内では使い放題で、
 まったく使わなくても一定のお金は払えよってしくみ。
 毎月引き落としされるけど、電気料金なんかは
 「サブスク」じゃないし、水道料金もちがうよね。
 いまだとネットフリックスだとかのことを、
 思い出す人が多いかもしれませんが、
 よくよく考えてみたら、「サブスク」の元祖って、
 「月極駐車場」かもしれませんね。

 ぼくも、けっこういろんな「サブスク」やっています。
 とても利用頻度が高くて、それなりのお値段のもあるし、
 お安いけれど、年に一度も使わなかったというのもある。
 それにしても、ぜんぶを足すとそれなりの金額にはなる。
 でも、高いといっても、びっくりするほどじゃない。
 いのちに関わるようなコストを支払うようなことはない。
 そして、これがなかったら、いのちに関わるというほど、
 すっごく大切な「サブスク」があるというわけでもない。
 そりゃぁ、そうだ、そういうものだろうとね、
 思っていたのですよ。
 ところが、あった! 
 「いのち」に関わる、とんでもない「サブスク」。

 契約は基本的に一日ずつということなのかな。
 一日に、コンテンツ見放題、使い放題、
 いくら使ってもいいし、無駄にしてもかまわない。
 金額は、貨幣じゃなくて「いのち」そのもの。
 なんでもありだし、基本的になんでも自由、無限かも。

 「サブスク」のブランド名は「LIFE(人生)」だ。
 だれでも会員で、脱会も自由だけど、永久は無理だね。
 そして、コンテンツに、じぶんで参加できるんだ。
 すでに、ずいぶん、むだにしてきちゃったかなぁ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「つまらんつまらん」と言ってても、一日分のお支払いだ。

目標あらばこそ

*[ベストバイ]糖質と味覚の闘い。

こちらの餃子は100gあたり糖質8.9g、餃子一袋・18個(360g)で糖質32g"とかなりの成績だ。

あまり期待せずにいただいたが美味しく、まず低糖質品とは気づかない品質だった。

ただし売り切れていることが多いようなので(amazonは在庫なし)、関心がある方は早めにチェックをお勧めします。

自分のような「ほぼ外食人」には夜早い時間に、しかもアルコール抜きで自粛せよというのはかなり堪えた。

家で買い込んだ惣菜を食べると、過食になったり過飲みになったり。

また糖質の多いものを食べてしまったり、と。

今回の自粛で、食生活のバランスを崩した外食派は意外と多いのではないだろうか。

 

それにしても、糖質を意識していると「どうしてこうも人の舌(脳)は糖分を識別する能力が高いのか」と恨み言をいいたくなる。

最近、サントリーのパーフェクトビールのようないい商品が出てきたが、まだまだ美味しい製品は少ない。

"糖質フリーの美味しい白米"へ挑戦する企業があったら何をおいても応援したいと思っている。

 

 

白いキャンバス

*[次の世代に]これからスケッチ。

最近「不治の病、以外はまだまだこれからどうにでもなるものだ」と思っていたら、ネットには「死ぬこと以外はかすり傷」という言い回しが流行っていた。

「生きてるだけで丸もうけ」というのは、さんまさんの発言らしい。

なんだって「これから描く物語なのだ。」 

と考えるだけで気楽になれる。

ものすごく小さな第一歩にもチャレンジできる。

歳や過去を気にすることもない。


「自分の思い込み」で自分を縛っていることはとてもよくある。

実は大したしがらみでもなかったり。

毎日働く、とか

新しい習い事をする、とか

キャリアを変えてみる、とか。

あるいは自分のキャリアをまず考えてみるとか。

 

「自分みたいなこんなやつ」が将棋の盤面に立っていて。

そしてトコトコと盤上を移動して。

それを「棋士の眺め」で見てみれば、八方向に可能性がある。

盤面から落っこちなければコツコツと進んでいけるのだ。

あ。一度相手に取られて、それからもう一回活躍するというのもある。

 

 それって「第二の人生」みたいなことかもしれない。

何度かリセットできるのも人生だ。

ネクストSDGs

*[次の世代に]法治と人治の間。

昨日、権利のない世界、いや「権利の主張の要らない世界」を目指せ、なんてことを書きました。

今すぐそんなことになったら、たちまち無法地帯のようになり、戦争でも起きてしまうかもしれないし「法治主義」がなくなっていいというのは暴論だろうが。

 

それにしても根本的に人間とか、他の生物も「争う」ということをするから「今みたいな法律が絶対に必要だ」ということには、誰しもあまり異論はないでしょう。

しかも「競争」とか「競争社会」が発展を促す、なんていうのも「当たり前の理屈」になってしまっているから尚さらだ。

けれど「行き過ぎた競争」が実にいろんな歪みを生んでいることも、みんな知っているワケだ。

で「それ」をどうやって「ほとほどの内」に留めるか?

というのがこれからの 大きな目標ではないだろうか。

 

自分たちはここ何千年も「富」とか「競争」とか「支配」とかを続けてきて今に至っている。

いろんな政治のやり方も試してきて、技術もものすごく発達してきたけれど「人類の年表」をハラリ先生のように眺めてみれば、まだまだ「人類は発達のなかば」だということにリアル感が出てくるだろう。

法の支配から脱する発明、をできた時がSDGsの最終ゴールなのではないだろうか。

それは確かに発明だ。

今そんなことを言っても単なる「天国論者」みたいに思われるだろうが、こんな話が話題になるのはそんなに遠いことではない気がするのだが。