藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

長野五輪金メダリスト・清水宏保。

その厳しい内容は、ほんの少し前まで自分が出場する立場だったゆえである。

一般的に「銀メダルは悔しいメダル、銅メダルはほっとするメダル」と言われる。
(中略)

条治、君は違っただろう。
金メダルが狙えたレースだった。

これは、事前の清水の予想と恐ろしいほど符号している。

1回滑るだけなら、君は本当に強い。
しかし、2回そろえることが普段からの課題だった。

そして清水は苦言を呈する。

 僕は君に言われたことがある。
「清水さん、あんなにつらいトレーニングをやらなきゃいけないなら、僕スケートやめます。楽して金メダル取りたいですね」。
(中略)

腹もたたなかった。
失礼だとも思わなかった。
ある意味で、君は天才だから。
コーナリングは僕が教えを請うほどの能力を持っていた。

今回、清水さんは「参加するだけ」の五輪ではなく、また違った立ち位置で大会を見ている。
それを取材するスタンスの朝日もなかなかのものである。


頂点を見た人にしか、あるいは
ある閾値をこえた「プロ」にしか見えない景色、というのは確かに存在するのだ。
だがその多くは「専門家とか一部の高度な人たち」にしか伝わらない。
そこに、プロの解釈を伝える「言葉」がなかなか存在しないのだろう、とかねてから思っていた。


今回の清水さんのコメントは、いわゆるスポーツ記者の発言とは違う、トップアスリートが見た「バンクーバ五輪」という点で珠玉のコメントだという気がする。
報道とは、こういう普段は表に出ない、「あり得ないレベルの解釈」を一般人に膾炙する、というところの妙味を忘れないで欲しい、とも思った。

音楽の評論でも、何でもそうだが「ある程度以上」のものが分かるには、「ある程度以上の見識」が必要だし、また、
ある程度以上の「それ」を表現するには、プロ同様の「水準の目」が必要になる。

スポーツの持つ最大の魅力はその峻厳さがもたらすギリギリの凄みなのだ、とあらためて感じた。
そんなところに自分たちは感情移入し、また元気をもらったりするのである。

プロとは、それを見る者に元気を与える人のことなのかもしれない。

条治よ 悔しかったか


条治(加藤)よ、悔しさがだんだんこみ上げてくる銅メダルではなかったか。

 僕も同じ色のメダルを持っている。長野五輪の男子1000メートル。
500メートル金メダルの勢いで取らせてもらった。
正直、まぐれの要素もあり、うれしいメダルだった。


一般的に「銀メダルは悔しいメダル、銅メダルはほっとするメダル」と言われる。
つまり、銀メダルには金に届かなかった悔いが残り、銅メダルは表彰台に上がれたという財産が残るという意味合いだ。


条治、君は違っただろう。
金メダルが狙えたレースだった。
結果として、銅メダル。
さらに、銀メダルは同じチームの長島圭一郎に逆転を許し、さらわれた。
レース直後の苦しそうな表情は、滑り終えた後の疲れだけではなかったはずだ。


 頂点に立てなかった原因ははっきりしている。
2回目の滑りだ。第1コーナーの出口でバランスをくずし、最後の直線はスタミナ切れから失速した。
1回目と同じレースを2回目でもしていれば、表彰台の頂点を十分狙えたのだ。
これは、たまたま起こったことではない。
1回滑るだけなら、君は本当に強い。
しかし、2回そろえることが普段からの課題だった。


 僕は君に言われたことがある。
「清水さん、あんなにつらいトレーニングをやらなきゃいけないなら、僕スケートやめます。楽して金メダル取りたいですね」。
僕の練習のドキュメンタリーを見ての感想だった。
僕は心肺機能を高めるために失神寸前まで自分を追い込むトレーニングをしてきた。
それに対しての反応だった。
腹もたたなかった。
失礼だとも思わなかった。
ある意味で、君は天才だから。
コーナリングは僕が教えを請うほどの能力を持っていた。

 今回、ズバリ何が足りなかったのか。
1000メートルの練習だ。
君は500メートルに特化し、1000メートルを捨てた。
しかし、500メートルを1日2回滑る今の五輪では1000メートルの練習が不可欠なのだ。


 銅メダルで満足していないはずの君だから、言う。
4年後金メダルを手にするには練習方法の変更が必要だ。
栄光のメダリストに対して、あえて厳しく書いたことを許してほしい。
長野五輪金メダリスト・清水宏保