藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

いつまでも子供。


つい先日、久しぶりに高校時代の知己と再会し、近況を報告し合ったあと、たあいのない恋愛論などを話題にする。

何だかそんな話をしている時が一番楽しい、というのはヤキが回ってきたのだろうか。(疑)



それにしても男性が持つ恋愛観、というのは実に出世魚のように変化する。(断)
ぷぷぷ。


傑作なのは、いやいや、特徴的なのは、男はオッサンになっても「意外にロマンチスト」なのである。
おでこをテカテカしながらも、「俺の気持ちは純粋や」といっている中年男には、そのまま笑い飛ばしてしまえぬ痛々しさすら漂う。


それに比し、(あまり話したことないが)女性の恋愛観、とか結婚観というのは何か最初から「びし」と決まっているような気がして、そう思えば畏怖を感じる。



男は大抵、そのなりに似合わず「終生のロマンチスト」であり、それがまあ中学生くらいから(自分の場合は小学生から)、期待と不安に翻弄されながらも、シビアな現実に触れ、その「新鮮な」感覚がだんだんと薄汚れてくる。

ただ、生来の「夢見体質」は生涯抜けきれず、年が往ってもそれなりに空想主義者である。




そして、それから数十年とか、半世紀をかけ、剥きたてのリンゴが酸化していくように「フレッシュな感覚」は失われていくのだが。

男の持つ恋愛観は、魬(はまち)のような出世魚的に変わってゆくのではないか。

確かな恋愛晩婚化


さてアラサー、とかアラフォーとか(アラフィフ、というのは聞かないね)。

まあ「団塊」以降大して括れる集団がなかったのかもしれないが、昨今はそんな感じの年代論はよく目にする。



女性論では「女は五十から」とかの説をよく目にするが、
男性と女性の恋愛生命は随分違うのかもしれない。


男は意外にいつまでも青年のようであり、
女は意外にずっと色っぽいのだろう。



若い時分の直線的な感情と、
年を経てからの深くねっとりとした感覚。


どちらも、その時代に楽しんでおくべきか。
それにしても、どの年代でも恋愛は成立するらしい。
だからこれから四、五十年、色んなことがあるのかもしれない。