藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

正解を探れるか、否か。

昨日、戦略についてのエントリをしたら、思いのほか反響をもらった。
自分たちは意外に日常の行動と「戦略」というものを分けて考えていないのかもしれないな、と思う。

せん‐りゃく【戦略】
1 戦争に勝つための総合的・長期的な計略。→戦術
2 組織などを運営していくについて、将来を見通しての方策。「経営―の欠陥」「―的人生論」「販売―を立てる」 [補説]具体的・実際的な「戦術」に対して、より大局的・長期的なものをいう。
(大辞泉より)

戦略とは、戦争に勝つための計略。
組織では、具体的・実践的な戦術に対して「より大局的、長期的なもの」を言うという。

つまり、通り一遍の正解などない。
何とか結果を出すために、試行錯誤、検討に検討を重ねて道筋を作り出し、それを実践してゆく。

実に、先の見えづらい、苦しい仕事なのである。

道筋を「たどる」ことの危うさ。

一定の成果を見込む「方法論」が既に確立されている環境では、あまり戦略が幅を利かせることはない。

むしろ、処理能力が速く、「既定の方法論や道具」を駆使して「効率的にこなす調整ができる人」が優秀な人材だろう。

それは、「道筋の見えている仕事の生産性をいかに上げるか」という命題である。
こういう分野では、反復能力や記憶力の優れた人材が活躍するだろう。
「過去の集積の中」から、いかに早い道筋で正解を導き出すか、という訓練に長けている人が向いている。

一方、ま反対ではどうか。
「既にある理論」はほとんど役に立たない。
人、物、金、情報、とか、基本的な因子は何も変わらいが、「それ以外」では何も法則はない。

正解に至る道筋は幾通りもあり、
また「確定的な正解」というものもない。

あるのは「方針」と「情熱」と「実行」のみである。

これまで「設問と回答」に慣らされ、採点主義で教育されてきた世代の人には大変な違和感があるだろう。
「定まった正解はない」と言われるのは、彼らにとっても最大の難問だろうと思う。


けれど、人が生きてゆく道程はそんなものばかりではないか。
代々、家業を継ぐことが暗黙のうちに決まっている老舗の店でも、「継ぐ側」には時代に応じた葛藤があろう。
増してや、ごく普通に義務教育を終え、進学してゆく若者に、急に「これからは何の正解もない森に入ってもらいます」と言えば、戸惑いは必至である。

とはいえ、結局人はその「戸惑いの中」で生きていかねばならない。

つまり「人が生きる」ということはそれほど自由であり、しかし不安の尽きないことなのだ。

そして、「実はそんな世界なのだよ」ということだけは、まだ十代の彼ら彼女らには正直に伝えるべきではないだろうか。

何か、既定の「正解」を紡いで行けば、そのままハッピーで無難なストーリーに仕上がってゆく、そんなに人生は簡単でもないし、退屈でもない。
仮免許を得て、いよいよ「自らの手」でドライブしてゆくとこからが、一人一人の物語なのだと思う。