藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

本物のスキル。

よく一流のアスリートが「緊張を楽しむ」とか「ストレスをプラスに変える」というのを耳にする。
そりゃ毎試合、緊張で筋肉がびびっていては結果は出せないだろう。
こういう話はビジネスの場ではよく理解できる。
というか少し緊張を必要とするくらいの場でなければ、全然成長しないと思う。
それどころか、もう偉い人と会って汗びっしょり、くらいの場面に立てるのは有難いことだなぁ、と思う。

 ぼくは、よく「打席に立てることをよろこぼう」と言う。
 怖かったり、緊張したりするような場面に、
 「君が立っていい」と認められている。

ただ、こと音楽の演奏については謎だ。
練習が足りないからだ、と言われればそうなのかもしれないが、どうもそれとは違う質の緊張があるのではないだろうかと思っている。
これがカラオケとか、プレゼンとか、芝居などとは違う「独特の何か」なのである。
同じ音楽の仲間に聞いてみても同様の意見があった。

こういう本物の緊張の時に、実力をそのまま発揮できるということがプロということなのかもしれない。
まだまだ自分がどう思われているか、とか上手く演奏したい、とかいう「自分自身の囚われ」から脱していないということに過ぎないのかもしれない。
この年にして目下最大の謎なのである。

・大きなステージに立つ前に、
 矢沢永吉でも心臓がバクバクするのだという。
 それを平気になることは、なかなかむつかしいことだ。
 しかし、その緊張を、高揚感に変えることならできる。
 つまり、彼はじぶんに「たのしめ!」と言いきかせる。
 おそらく、それをくりかえしてきたのだろうな。
 きっと、いまはもう、じぶんのなかに緊張を見つけたら、
 「おっ、いいぞ。たのしめるぞ!」と、
 自動的に変換できるようになっているかもしれない。
 
 どんな人にも、こどものころから、
 心臓がバクバクするようなことがある。
 少年サッカーであろうが、合唱コンクールであろうが、
 なにかの試験であろうが、お見合いであろうが、
 失敗したらどうしようという場面はある。

 そのときに、緊張感があることは、
 実は「いいこと」なのだと思うのだ。
 ずいぶんと、おとうさんっぽいような言い方だけれど、
 生きていて、チャレンジしているからこそ、
 そんなふうな場に立っているということなのだ。
 そういう場にいることが憧れであるような人だっている。
 失敗したらどうしようなんて考えるような時間には、
 機会(チャンス)というやつが隠れているのだ。
 だから、おもしろいのだ。
 そういうわけだから、「たのしめ」って言えるわけだ。
 
 ぼくは、よく「打席に立てることをよろこぼう」と言う。
 怖かったり、緊張したりするような場面に、
 「君が立っていい」と認められている。
 それは、すばらしいことだと思うだろう。
 ああもしてやろう、こうもしてやろうと、
 にやにや、わくわくしたらいい。
 胸がドキドキだとか、心臓バクバクだとかは、
 買っても買えない機会なのだ。 
 
 実は、ぼく自身も、この「たのしめ」には救われている。
 この緊張を快感に変換させるおまじないを、
 これまでに何度唱えてきたかわからない。
 ただの「思いよう」が変わるだけで、おもしろくなる。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
緊張してますと言いたいときは「たのしいです」と言おう。