藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

自分の思考。

最近よく「借り物の知識」ということについて考える。
学校に上がり、さくらさくら、と文字を習っていて、いつしか会話と文字が結びつき自分で文章を作れるようになる。
「自分で会話し自分の意思で話す」というのは間違いなく本人のものだ。

一方人は日々、実に色んな知識と触れ合う。
新聞、ネット、書籍、対人の会話などから得る情報の量は、実際に自分が見聞きしたり体験できるものの量を遥かに超えている。
毎日飛び込んでくるEUのニュースや中東の様子とか、新しいビジネスや学究的な発見など、とうてい自分が実際にすべてを体験することはできない。

ウクライナとロシアの関係が及ぼす影響は…とか
ギリシャEUとロシアの関係は…とか
中東とエネルギー価格については…とか日々報道を聞きながら自分たちは何となく知っているような気分になっているけれど、実際に見たものはゼロである。
実際に市場に行けば、野菜の値段が上下していたり、ブランド物の価格が上がっていたり、また給料が景気によって上がったり下がったりというのはあるけれど、とてもそこから世界情勢は理解できない。

そういえばそれって経済学者とか政治家がマクロ経済政策とかを語るときに感じる、ある種の胡散臭さにも通じている。

報道や他人の説をどこまで信じ、それを基にして自分で考えるのか。
もっと言えば「自分の考え」はどこまでが外部からのもので、どこからが「オリジナル」と言えるのだろうか。

逆に考えると、それじゃ自分がリアルに眼で見たものと、自分だけで考えたことしか本物ではないのだとすると、「自分の頭の中なんてほとんど本物なんてない」ということになってしまう。
物理とか化学とか、自然科学のほとんどのことは教わったから知っているだけで自分で考えたものなどありはしない。
だから同様に自分が「これからの世界経済は」とか「トップダウンとフラット型のマネジメントについて」とか話していても一縷の不安が付き纏っている。

多分、多くの先人たちが実験し仮説を立てて検証し、経験的に得られた「バーチャルなものの積み重ね」が知識であり、だからそれは借り物ではあっても偽物ではないのだろう。
そして先人たちのそうした財産を誰もが自由に使いながら、さらなる検証とかあるいは過去の誤算なんかを発見しつついわゆる「真理」というものに向かっていくのだろうと思う。

それにしても情報過多の現代では、どうも「借り物の知識」ばかりをぶん回して一日を過ごしているような気がするのである。
自分だけで考えることと、外部の情報のバランスが崩れているような気がするのは自分だけだろうか。