自分が今の肉体と精神のままで、どんな理想が描けるだろうか。
制約なく想像できる自分をイメージして、それをマネる。
なんとなくちょっと変身した自分ができていくのじゃないだろうか。
「内なる自分」との競争だ。
稽古事のように形や作法をまねる(学ぶ)とか、基礎の練習の方法を学ぶ。
まずは「その先」へ、つまり「自分らしいオリジナリティが出せるくらいのレベル」へ行くためには必要な近道というか王道である。
さらに稽古事ではなくて、仕事とか生活の中でも"真似る"というのは大いに活躍している。
というか知らないことって真似てばかりじゃないだろうか。
料理だって掃除だって、観光だって結婚式やお葬式だって、真似ることなしにいきなりは出来ないことばかりだ。
さらにそういう日常のフィジカルなことばかりじゃなく「考え方をまねる」というのはもっと重要かもしれない。
「この人はこのニュースをこんな風に捉えるのか」とか
「こういう場面ではまず相手を中心に考えるのか」とか
ひいては「仕事って人生ではこういうものか」とか
「男と女とはそんな関係なのか」とか。
色んな人の意見を聞いて、それをそのまま真似るのかどうかはともかく、精神的にも他人や先輩の考えをまねるというのも、自分たちはほぼ無意識にしているものだ。
理想の自分
そして自分のこと。
今現在、自分がどんな大人か、とか
何が足りていないか、とか
どんな強みや弱みがあるか、とかを客観的に見るのはなかなか難しいものだ。
そんな中で、自分自身の「客観的スコアリング」も大事だがまず「まねる対象を作ってみる」というのも手だと思う。
糸井さんのブログの中では「理想の自分をイメージして、それをまねる」と書かれていた。
「こんなことをしてみたい」という「外部の道ありき」ではなく、"自分自身の理想"をまず想像してみるのだ。
自分が今の肉体と精神のままで、どんな理想が描けるだろうか。
制約なく想像できる自分をイメージして、それをマネる。
なんとなくちょっと変身した自分ができていくのじゃないだろうか。
「内なる自分」との競争だ。
・「まねる」ということの、
とんでもないほどすごい意義については、
いくら語っても語り尽くせるものではなさそうだ。
だいたい、このことばの使い方だって、
じぶんで考え出したというものではなく、
どこかで読んだり聞いたりしたことをまねしているのだ。
「まなぶ」と「まねぶ」が同じ語源だとかいうけれど、
その語源についての学説が
正しかろうがまちがっていようが、
「学ぶ」にあたって「まねる」がなければできっこない。
先生と同じことをして、それができるようになる。
それが学ぶだとしたら、まねるとほとんど同じことだ。
身体を使った「まねる」もあるし、
考え方を「まねる」ということもある。
たくさん本を読んでいる人が感心されるのは、
「まねる」の元をたくさん知っているからだとも言える。
赤ちゃんは、まずは親を「まねる」ことで、
人間としてのいろんなことを学んでいく。
赤ちゃんは同じことをやってみようとするし、
親はまねさせようとする。
うまく「まねる」ことができると、ほめてやる。
ほめられることで、赤ちゃんはもっとまねたくなる。
スポーツなんかで、強いチームは、
指導者や仲間が強くなるような技術や考えを持っている。
それを見よう見まねで、あるいは教えられて、
「まねる」ことができるようになる機会が多い。
まねしあって、技術や思考はさらに磨かれていく。
もらい泣きも、感情を「まねる」ことだとも言える。
他人の表現するものに「感動」するというのも、
共振という言い方もできるけれど、
よろこんで「感情」をまねているのかもしれない。
理想のじぶんをイメージして、それを「まねる」のが、
人間にとっての成長だとは言えないか。
まだそこまで行けてないけれど、まねてふるまう。
毎日、不断にまねすることを探しているのが努力家だ。今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「きずな」というのは、「まねあい」なのかもしれない。