藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

平常心の誤謬。


「平常心」といった途端に平常心でなくなる。「私は狂っていない」というとそうでないことが多い。

「そのもの」を見ようとすると、それを見てしまうがゆえに「周囲」が見えなくなるのは道理である。
だとすると自分たちは常に「"対比"を頼りにものを見ている」ということだろうか。
対比できないとたちまち感情が勝ってしまうのかもしれない。

「肩入れ」だとか「愛情」とか「憎しみ」だって情緒である。

自分たちは理屈よりは情緒で動いている、と言われているけれど、それはつまりゴロゴロと誤りを生む可能性があるということだ。
あぶない。
誠にあぶない。

好きな酒を飲むとか、是非もなく趣味に没頭するというのなら人様に迷惑をかけないが、「関係者」がいるときには情緒ってちょっと困りものである。

チームで仕事をしているときに「情緒」と「論理」が混在していては実にややこしい。

では(特に仕事の)日常から情緒を「抜いて」仕舞えばいいのかというと、そうでもない。
待てよ。
「情緒」と「熱意」って別のものだろうか。
むむむ。
(つづく)