藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

当たり前の感覚に目覚めること。

自分はもうブログを長いこと書いているが、多分「こんなこと」を書きたくて書き始めたのだと思う。
けれど、思考がなかなか深まらない。
自分や自分の周囲の出来事を、極力抽象化し、構造化し。
暗喩し、その本質を見極めたいと思いながら今日に至る。

「自分と社会との関係」とか。
SNSと人間関係の「法則」とか。

世界はそうそもそも、人生の困難なるものは自分と世界のズレの表れである。
自分はあることを正しいと信じるが思わない――そういう対立が生じたとき、困難が訪れる。

そんなこととか。
なんでもインスタントに入手できる時代には「本当に大事な"絆"ととってつけた"絆"」の見分けがしにくいのかもしれない。

ぼくが一生をかけて変えることができるのは、ごく少数の身の回りの人々だけであり、そしてぼくを変えることができるのもおそらくは彼らだけだ。
その小さく面倒な人間関係をどれだけ濃密に作れるかで、人生の広がりが決まるのだと思う。

「人と人の関係」はwebが進化する今でも、実は普遍的なものなのだろうか。
「苦労なくして果実なし」など大昔の教訓とか、もっと言えば自然科学の法則のようなものが、また当然のように語られている。
ついつい「目先の科学手妻(手品)」に目を奪われているのが今の自分たちなのかもしれない。

困難と面倒 東浩紀

ぼくは1971年生まれで、20代で情報技術革命の波に出くわした世代にあたる。だから長いあいだ、情報技術によるコミュニケーションの進歩や社会変革の可能性を信じてきた。けれどもこの数年で考えが変わっている。いまのぼくは、情報技術にあまり大きな期待を寄せていない。

かわりになにに期待すべきかといえば、最近は、家族や友人など、面倒な小さな人間関係しかないのではないかという結論に至っている。驚くほどつまらない話だが、今回は最終回なのであえて記させてもらおう。

さて、いまはSNSの時代である。SNSを含むリアルタイムウェブの本質は、時間と過程の消去にある。かつてコンテンツの拡散には一定の時間がかかった。権威やメディアをすり抜ける必要もあった。けれどもいまや、それらの面倒をすべてすっとばし、無名の書き手が一晩で何百万もの支持者を集めることができる。それはSNSの良いところだ。

けれども人生にはトラブルがつきものである。どれだけ誠実に生きていても、誤解や中傷に曝(さら)されることが必ずある。そしてそういうとき、SNSの支持はほとんど役に立たない。匿名の支持者は、トラブルの話題自体すぐに忘れてしまう。あっというまに集まった人々は、同じくあっというまに離れる。そこで継続的に助けてくれるのは、結局は面倒な人間関係に支えられた家族や友人たちだったりする。

SNSの人間関係には面倒がない。だからSNSの知人は面倒を背負ってくれない。そんなSNSでも、たしかに人生がうまく行っているときは大きな力になる。けれども、本当の困難を抱えたときは、助けにならないのだ。

これからの時代を生きるうえで、SNSのこの性格を知っておくことはとても重要なように思う。、世界はそうそもそも、人生の困難なるものは自分と世界のズレの表れである。自分はあることを正しいと信じるが思わない――そういう対立が生じたとき、困難が訪れる。だから困難そのものが悪いわけではない。むしろ、概念の発明や政治の変革は必ず困難とともに生じる。その困難を時間をかけて解消し昇華することで、はじめて自分も相手も社会も進歩するのだ。けれども、いまのSNSにはそのような熟成の余裕がほどんどない。

困難な時期を支えるとは、言い換えれば、支える相手と世界の関係が変化する過程に時間をかけてつきあうということである。ひとりの人間が変わるというのはたいへんなことで、「いいね!」をつけるようにポンポン複製できるものではない。いわゆる「議論」で相手が変わると考えているひとは、人間の本質について無知である。ぼくが一生をかけて変えることができるのは、ごく少数の身の回りの人々だけであり、そしてぼくを変えることができるのもおそらくは彼らだけだ。その小さく面倒な人間関係をどれだけ濃密に作れるかで、人生の広がりが決まるのだと思う。

家族も友人もあっというまには作れない。面倒な存在でもある。だからこそそれは変化の受け皿となる。面倒がないところに変化はない。情報技術は、面倒のない人間関係の調達を可能にしたが、それはまた人間から変化の可能性を奪うものでもあった。そのことを忘れずにおきたいと思う。
(批評家)