藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

データと思想。

特にネットで表面的な「クイズ的知識」はほとんど網羅されるようになった。
ものすごく便利なことだ。
一方自分が「ただ情報に接している」のか、何かを「深く考え込んでいるのか」が曖昧になっている。
客先で「これからのデフレの見通しは…」とか「不動産市況はすでに頭打ちですが…」などと発言しているが、果たして「それは本当か」と。
日経新聞に書いてある、とかあるアナリストが言っていた、というのではあまりに軽々しい。
「◯◯らしいですよ」という話は噂に過ぎない。
「私は◯◯だと考えています」と堂々と言わねば、自分の意見とは言えない。

さて、今年の米中関係はどうなるか、とか。
日本の政治の焦点は何ですか、とか。
どんな業種が伸びますか、とか。

聞かれれば、全部が「見知った知識の組み合わせ」でしかない。

けれど「全部が全部借り物」というわけでもない。
「こういうデータを見て」だから「私はこう思います」ということをはっきりと相手に示さないと。
自分はつい格好をつけて「それはね…」と話し出したら黄信号だ。
とってつけた借り物の知識を振り回すようになったら進歩が止まる。
「データのこと」と「意見のこと」と「思想のこと」を分けて話す技術が必要な時代だと思う。