全盲、全ろう。
目も耳も。
そんな極限にいる人の心境を聞くことは、自分の日常を反省するにはこの上ない機会である。
平平凡凡と過ごす日常がいかにラッキーなことか。
だから弛緩した日常を過ごしていては、本当にもったいないのだ、ということを自分自体では気付けない。
自分を相対化して見る、というのは実に難しいものである。
福島 人とのコミュニケーションが途絶えて外部世界とのつながりを失い、世界を失ったと感じました。
そして、人とのつながりを失うことは、自分という存在が消えることだと思いました。
自分の存在を感じるのは、他者とかかわり、自分が他人の存在にぶつかり跳ね返ってくるからです。
人と人との関係は作用・反作用のようなもので、物が見えるのは、光を反射して初めて明るさを感じるのと同じだと思います。
反射するもののない世界。
自分が何かを発したり、他人の発する何かを感じたりすることのない世界。
しかも生まれつきではない。
9才で失明、18才で失聴。
段々と外界から閉ざされてゆく様子はさながらベートーベンのようである。
どんな人にも役割がある。
現在は東大の教授を務める福島だが、そのハンディと向き合いながら、自分の使命を見出している。
何か大いなる存在から、「自分がたどってきた人生の筋道のうえに役割がある、何かをしろ」と言われている気がします。
この一文に生きる姿勢がある。
これは「大いなる存在」など存在しないことを示唆している、と自分は思う。
「そのように」考える、思考の方向性そのものが、氏の「能動」である。
生きる姿勢、とか信条、とか人生観、とか。
人生を支配するのは、やっぱり自分の心でしかない。
その心は、また自分自身で作りこめるのだ。
ということを再確認した週末の午後であった。
福島智さんインタビュー全文(1)「暗黒の宇宙に放り出された孤独感」
視覚・聴覚ともに失う「盲もう」になりながら東大教授に就任、バリアフリーなどの研究を続ける福島智さんに、心の健康について聞きました。(聞き手=医療情報部・田中秀一)福島 智(ふくしま・さとし)
1962年、兵庫県生まれ。9歳で失明、18歳で失聴した。東京都立大(現首都大学東京)卒。金沢大助教授、東大先端科学技術研究センター准教授を経て2008年から教授。今春「生きるって人とつながることだ!」を出版。――18歳で盲ろうになった時、福島さんは「暗黒の宇宙空間に放り出されたような孤独を感じた」と、著書「生きるって人とつながることだ!」に書いていますね。視覚に加えて聴覚を失った喪失感は大きかったと思います。
福島 人とのコミュニケーションが途絶えて外部世界とのつながりを失い、世界を失ったと感じました。そして、人とのつながりを失うことは、自分という存在が消えることだと思いました。自分の存在を感じるのは、他者とかかわり、自分が他人の存在にぶつかり跳ね返ってくるからです。人と人との関係は作用・反作用のようなもので、物が見えるのは、光を反射して初めて明るさを感じるのと同じだと思います。
――たとえばどんな場面で自分の存在を失ったと感じるのですか。
福島 盲ろうになっても、トランプをしようと思えば、点字トランプがあるからできます。でも、それだけでは面白くない。ほかの人がワーワー言ったり、「おまえ、あほか」と言ったりするのがわからないからです。自分の世界が広がるかどうかは、人とかかわれるかどうかにかかっています。言葉が通じない外国に行った時とか、人とコミュニケーションできない時、あるいはコミュニケーションはできるのに黙殺された時に、人は深い孤独を感じると思います。
――孤独から、どのように立ち直ったのですか。
福島 母が、「指点字」というコミュニケーションの方法を考えつきました。指同士を触れて文字を伝えるのです。学校の友達がこれをマスターして、指点字で会話することができるようになり、「これでやっていける」と感じました。
なんらかの方法でコミュニケーションが復活したことが重要でした。人とコミュニケーションする現実がとても大事。日常的に話をする人がそばにいることが大切。本を読むといったことだけでは現実を感じることに限界があります。他者とのコミュニケーションがないと、孤独は癒やされません。
――盲ろうになった時、「苦悶することに意味がある、それでも生きる意味があると考えた」と著書にあります。そこに行き着くまでに、どういう過程がありましたか。
福島 耳が少しずつ悪くなって、14歳で右耳が聞こえなくなりました。すでに目が見えなくなっていたので、音が聞こえる方向もわからない。前途への不安、どん底に陥るのでないかという不吉な予感がありました。
18歳になり、1981年1月から3月の間に左耳も聞こえなくなりました。1月まではまだ治るのではないかと思っていましたが、2月になると不安、絶望が大きくなってきた。とうとう両耳とも聞こえず、「これからどうするんだ」と自問自答するのですが、どこにも答えはない。仕方なく、本を読んだり、日記を書いたりしていました。主人公が虫になるカフカの「変身」や、芥川龍之介が自殺を考えたことをつづった作品など、気が滅入るような暗い小説を読んで、自分の境遇と重ね合わせていました。
そんな折、かつて中学生のころに北杜夫の自伝的エッセーを読んだことを思い出しました。彼は東北大学に在学中、自殺を考えた。その時、下宿で逆立ちをする。空が足元で、山が上に見えた。すると、生きる、死ぬことがちっぽけなことに思えて、自殺を思いとどまったのです。「だまされたと思って30歳まで生きてみたらいい。その時も死にたいと思ったら、その時また考えたらいい」というようなことが書いてありました。そのことをふっと思い出して、私も「あわてなくても、みんな死ぬのだから」という気持ちになりました。
福島智さんインタビュー全文(2)「僕は豚じゃない。生きがいが欲しい」
――盲ろうになった後、福島さんにとって、どんなことが希望になったのですか。
福島 高校3年の時に、今後どうするか、進路について両親と話をしました。私は大学進学を希望していて、「チャレンジしたい」と言った時、父は「無理して大学なんか行かなくていい。もう苦労はしなくていい。死ぬまで面倒みるから、好きなことをして好きなものを食べて過ごしたらええやないか」と言った。小さい時から治療に手を尽くしたのに目が見えなくなり、そのうえ耳も聞こえなくなって、父は不憫になってそう言ったと思います。
その時、「僕は豚じゃない。生きがいが欲しいんや」と答えました。のほほんと暮らしているだけではいやだ、と言ったのです。
――大学(東京都立大学)には、すんなり進学できたのですか。
福島 大学が受け入れてくれるかどうかが問題でした。私の前には、日本の大学で盲ろう者を受け入れた例がありませんでしたから。大学が受け入れてくれたのは、私をサポートするグループができていて、指点字で授業の通訳をしたりしてくれる人がすでに確保されていたことが大きかった。
――現在教授を務めている東大では、どのような研究をしていますか。
福島 バリアフリー分野を担当しています。階段にスロープを設置するといった物理的なバリアだけでなく、社会的な壁をどうやって撤廃していくかという研究です。私は、障害があると取れない資格がある――これは欠格条項といいますが――といった法制度のバリアや、意識、心のバリアを解消することに関心があります。障害のない学生に、障害について考えてもらうことも大切です。
――大学での研究や教育は、生きがいとして重要なことですか。
福島 そうですね。自分に割り当てられた役割があると感じています。その役割を果たすことが生きがいなんだと思います。(大学ではなく)自分の好きなように生きたいという思いもありますが、いろいろな人に支えられ、出会いのうえに、今の自分があります。そういうふうに考えると、何か大いなる存在から、「自分がたどってきた人生の筋道のうえに役割がある、何かをしろ」と言われている気がします。
――福島さんは、盲ろう者の希望の星だと思います。でも、そういう人は一握りです。社会的に意味のある仕事をしないと、役割を果たせませんか。
福島 どんな人にも役割があると思います。何か社会的に重い責任とかステータスがあるということではなく、人それぞれの役割がある。どんな人にも存在することに意味があり、価値がある。私は、盲ろうという、社会から忘れられた人のスポークスマンになり、アピールをしていく。みんなが目立った派手なことをすればいいわけではありません。
私自身も、大学に行かなくても、それはそれで役割はあったと思います。地元の盲学校に行って職業訓練を受けて針灸の仕事をして、結婚して子供もつくって……。そのほうが幸せだったかもしれません。やるべきことをやることが幸せかどうかわからない。今はあまりにも責任が重くて、幸福かどうかわかりません。与えられた任務を遂行しているイメージがあります。
実は、ストレスが元で、5年前に「適応障害」と診断されました。
福島智さんインタビュー全文(3)まさかの発病「適応障害」
――「適応障害」になった経緯を教えてください。
福島 うつ状態になり、5年前の2005年に「適応障害」と診断されました。目が見えなくなったり、耳が聞こえなくなったりした時でも、うつにはならず、精神的には強いと自負していましたから、自分がうつ状態になるなんて信じられませんでした。2年間くらい仕事をしたり休んだりして、抗うつ剤も3年間飲みました。さらに1年間、安定剤や導眠剤を飲んで、完全に薬がいらなくなったのは1年前です。心というものは、意思の力ではコントロールできないことを実感しました。
――適応障害は、どういう症状から始まりましたか。
福島 2003年春ごろから、ふらふらする「めまい」があり、2年くらい続きました。耳鼻科、神経内科などの検査では異常なし。ある時、耳の専門病院に行き、ストレス外来で、ゆっくり話を聞いてくれた先生が「適応障害」と診断したのです。眠れない、会議や打ち合わせに出たくない、ということがそれまでにもありましたが、一時的なものと思っていました。診断までに2年くらいかかりました。
――心理的にはどんな感じですか。
福島 エネルギーが出ない感じです。以前から何度も出ている盲ろう者の世界的な会議があって、当然出るつもりだったのですが、出るのがしんどいと感じた。会議をさぼろうというのでなく、何もやる気が出てこない。大学や仕事のことを考えると、自分が電池切れ、ガス欠を起こした感じがしました。世界から色彩がなくなっていき、ニュースにも関心がなくなっていく。頭を枕から上げるのがしんどくなる。初めてのことでした。今までもいやなこと、逃げ出したいことはありましたが、そもそも逃げるエネルギーもない。1年くらい薬を飲んで、良くなったり悪くなったりを繰り返していましたが、原因がクリアされていないのではないかと思い至りました。
――何が原因だったのですか。
福島 職場の人事の問題です。大学で30人くらいの研究チームを率いていたのですが、メンバー同士のトラブルがありました。盲ろうになることはしんどいのですが、自分一人の問題なので、頑張ればなんとかなるという側面があります。しかし、他人同士のトラブルは自分ではどうにもできない。職場の責任者に相談して、人事面の対処をしてくれました。――職場の人間関係の問題は、世の中の管理職なら大なり小なり共通して抱えている悩みですね。そのストレスは、盲ろうになることより大きかったわけですか。
福島 盲ろうは恐ろしいストレスでした。それに比べて、よくある人事のゴタゴタで病気になるとは、自分のキャパシティー(容量)がなんと小さかったのかと情けなくなりました。
でも、盲ろうになるストレスは、自分の頭上に大きな岩が乗った感じですが、力を出して押し返せばよかった。ところが、人間関係に伴うストレスはものすごく大きくて、ネバネバしたクモの巣のような感じです。からみつかれると、どっちに向かって力を出せばいいかわからない。たちが悪いストレスです。
それに、盲ろうになった時、私は若かったし、盲ろうだけを引き受ければよかった。それから20年以上たって、金沢大、東大と職場を移り、知らず知らずのうちに疲労が積み重なっていたと思います。ストレスに対する耐性が低下してきた。若くて元気な頃だったら病気にならずに済んだかもしれない。今もまだ、完全にはストレス耐性が戻っていないので、また同じようなことが起きるかもしれない。仕事や生活を変えていかないといけない。適応障害になったのは盲ろうだからではなく、誰にでも起きうることです。
(2010年5月29日 読売新聞)