藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

楽しい仕事に。

例えば、小学生の子供に「勉強と遊び、どっちにする?」と聞く。
ほぼ全員が"遊ぶ"と答える。
そりゃそうだ。

ところが一部の子供が"お勉強!"という。
どきっ。
勉強とはそんなものである。

"やりたい人にとっては遊び以上のもの"なのだ。

自分も社会人になるまでは知らなかったが、「仕事」も全くこれに当てはまる概念で考えることが出来る。
大学や専門学校を出て、そのまま何か「使役に出される」ような感覚で就職活動をし、会社に採用される。
大企業のサラリーマンになったり、自分で起業したり、形態は様々だが、それが「社会に出る」ということだと、先輩達から教えられていた。
それは正しい。
けれど、それは実は「そんなに使役的なものでもない」というお話である。
でもでも、それは「かなり使役的なものにもなり得る」というお話でもある。

要は自分の捉え方次第なのである。

仕事の心構え、について

社会人になって。
「働きたくないなぁ」という人。
「遂に働かねばならないのか」という感覚の人。
そして「いよいよ働いてやるか」という、まあ開き直った人。

そんな風に分かれてくるものである。
けれど、実はもっと楽しく、クリエイティブな感覚がある。

それは「社会人になっても遊んでいるくらい楽しくやるぞ」という感覚なのである。

物事は「捉えよう」次第である。

「こんな苦しいこと」と思えることが「こんなに有り難い経験」になることは"まま"、ある。

人生なんて、苦しいことばかり。

という先人の発言は、縄文時代でも、平安時代でも、幕末でも、そして現代でも、どこにも正しく当てはまる。
かの徳川家康翁も人生を「ユルい上り坂を重荷を背負って登る自分」に例えている。
多分、先人の言うように「生きる」ということはそういうことなのである。


けれど。
けれど、その数十年の人生の過ごし方は、ずい分違う。

どうせなら、「恨みがましく、使役的に」過ごすのではなく、
「感謝しながらも、そして能動的に過ごす」ということに注力したいと思う。

なぜなら「そんな人」の方がよほど魅力的なのである。
ひがみ、恨みは、あまり「心地よさ」を周囲の人にもたらさない。

面白き ことも無き世を 面白く

そうするのは、実はその句に相対した"自分自身"なのである。
時代の原理はいつになっても変わらないものだと思う。