藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

達郎の思い。

「生活手段としての音楽を冷徹に考え、ライブに先祖返りしようと決めた。今まではCDが音楽文化の中心で、ライブはその販促活動みたいなところがあった。でも、これから先は、ライブのためのCDになる」と言い切る。

「生活手段としての音楽」。
つまり歌うこと、奏でることが生活になる。
これは中世の音楽家と同じ境地。
貴族のお抱えになるのか、さもなくば町場の楽奏者になるのか。
そんなことを、現代の音楽家も考えるべき時代にあるようである。
それはネットの出現のせいだが、だが問題が「より先鋭的になった」という側面も間違いなくあるだろう。

音楽配信によってパッケージのCDが殲滅(せんめつ)されていくことは時代の趨勢(すうせい)で、止めようがない。今回のアルバムを出した最大の理由は、CDがまだ健全な流通に乗っている間にベスト盤を出しておきたかったから。CD時代の終わりに際しての、まとめです。

といいきる、ポップスのキングは、次の時代にどのような流通を選ぶのだろうか。
ある意味、徹底的にメディアに迎合せずにトップを走り続けていたチャンピオンが、一旦のまとめを行い、次への策を練っているようにも見える。
ポップスの次世代は配信かメディアか、それともやはりライヴに戻れるのか。
そんなテーゼがこれから試されようとしているようにも感じる。

これからの挑戦にぜひとも期待したい。

フロントランナー セレクション
第92回 ミュージシャン 山下達郎さん
ライブに賭ける音の職人 2012年10月6日付紙面から

「これがガラパゴス!」
曲中でそう叫ぶと、おもむろにギターを置き、スタンドマイクから離れてステージの後方へ。肉声でシャウトし、ホールの最後列まで歌声を響かせる。ライブではおなじみの光景だ。
「生の声」を届けることへのこだわりから、売れっ子になってからも日本武道館やドームなど大規模会場でのライブを避け、2千人規模のホールを積極的にまわってきた。時流におもねらず、不器用でも自分のスタンスを守り続ける――。肉声を披露するパフォーマンスを「ガラパゴス」と呼ぶのは、時代遅れを揶揄(やゆ)する言葉を反転させた、達郎一流のしゃれっ気だ。
「徒党を組めない、人とつるめない性格。心情的アナーキスト」と自称する。それゆえ「都市生活者の疎外」をテーマに歌ってきたという。
1973年、バンド「シュガー・ベイブ」を結成。アンダーグラウンドなロックシーンに身を置きながら、ポップな楽曲を志向する音楽性はなかなか理解されず、評論家と怒鳴り合ったことも数知れない。今なお「僕は本流ではなく、傍流の人間」と話す。
76年のソロデビュー後も、代表曲「クリスマス・イブ」をはじめ、洋楽への深い知識に根ざした良質な楽曲を発表し続けてきた。90年代中頃には、業界の様々なしがらみから「引退も考えた」というほどの深刻な低迷期に苦しんだが、97年、作曲を手がけたKinKi Kidsの「硝子(ガラス)の少年」の大ヒットを機に復活を果たした。
テレビに出ないことで有名だが、一方で、ドラマやCMなどとのタイアップが多いことでも知られる。「曲を知ってもらうための露出です。僕にとってはこれが立派な『テレビ出演』」という。
そんなポップスの職人はいま、CD不況のただ中にあって、ライブに活路を見いだそうとしている。
2002年からの10年間で、CDやDVDなど音楽ソフトの総生産額は4800億円から2800億円に落ち込んだ。しかし、ライブ・エンターテインメントの市場規模は、同じ10年で800億円から1600億円へ倍増した。
この音楽産業の激変に呼応するように08年、6年ぶりにツアーを再開。以来、各地の音楽フェスに出演し、デビュー当時を知らない若い世代にもファン層を広げている。
「生活手段としての音楽を冷徹に考え、ライブに先祖返りしようと決めた。今まではCDが音楽文化の中心で、ライブはその販促活動みたいなところがあった。でも、これから先は、ライブのためのCDになる」と言い切る。
今夏には「なかなか生で見られないお客さんにも、ライブを体験してほしい」と、全国の映画館でライブ映像を上映した。そして9月末、ソロ活動35周年を記念したベスト盤「OPUS 〜ALL TIME BEST 1975-2012〜」を出した。
音楽配信によってパッケージのCDが殲滅(せんめつ)されていくことは時代の趨勢(すうせい)で、止めようがない。今回のアルバムを出した最大の理由は、CDがまだ健全な流通に乗っている間にベスト盤を出しておきたかったから。CD時代の終わりに際しての、まとめです」
これから音楽はどうなるのか。若手ミュージシャンから相談された時には、こう答えている。
「音楽がなくなるわけじゃない。音楽を届け、利益を生むための方策が変わるだけ。音楽を人に伝えたいと思うパッションがあるなら、道は必ずある」
1953年、東京・池袋生まれ。
68年、都立竹早高校入学。
72年、明治大入学、数カ月で中退。
73年、大貫妙子さんらとバンド「シュガー・ベイブ」結成。
76年、シュガー・ベイブ解散。アルバム「サーカス・タウン」でソロデビュー。
80年、マクセルのCMへの出演が話題になり、アルバム「ライド・オン・タイム」でオリコン1位獲得。
82年、シンガー・ソングライター竹内まりやさんと結婚。
88年、JR東海のキャンペーンに「クリスマス・イブ」(83年発売)が使われ、大ブレーク。
97年、作曲を手がけたKinKi Kidsの「硝子(ガラス)の少年」がヒット。
11年、6年ぶりのアルバム「レイ・オブ・ホープ」発売。
ラジオ番組「サンデー・ソングブック」(TOKYO FM系)のプロデューサー砂井博文さんは「達郎さんは常にリスナーを意識している。東日本大震災の直後には、避難所の小さいラジオでもよく聞こえるよう、自ら音質を調整していた」と話す。

山下達郎さん 「ライブはネットで再現できない一期一会の体験」――近年、ライブに力を入れていますね。
愛用のギターを抱えて=東京・永田町
昔は、お相撲さんとか野球選手とか文化人とか、有名人は必ずレコードを出したでしょ。音楽が文化の中心にあり、その人の認知度を高める勲章だったわけですが、CDはそういう役割を終えた。CDにアイドルの握手券が付いているんじゃなくて、握手券にCDが付いている。主従が逆。仮にCDが付いてなくても、買うんじゃないですか。
音楽を使って利益を生むというメカニズムが衰弱しています。ユーチューブやニコニコ動画でタダで聴けるなら、CDを買わないでしょう。でも、ユーチューブじゃ、ライブの空気感は再現できない。ライブという一期一会の体験旅行のための音楽。それ以外に利益を生む手段はないと思います。
――ベスト盤の収録曲の大半に、タイアップがついています。
テレビに出ない、武道館公演をしない、本を書かないの「3ない」が僕のポリシー。テレビは自分のイメージが勝手に拡散するから怖いんです。とはいえ、曲を知ってもらうのに露出はしなきゃいけない。そこでタイアップに頼るようになりました。
芸術じゃなく――曲を提供する際の哲学は。
「心は売っても魂は売らない」が持論です。譲れない一線は守りますが、表現者同士のぶつかり合いの中で、こちらが曲を書き換えることもある。「ずっと一緒さ」は、ドラマの関係者に「200回聴いたけど、これじゃない」と言われ、書き直してできた曲。映画主題歌の「希望という名の光」は、タイトルバックと合わないのでもう一度書かせてくれと言って、今の曲になった。プロデューサーは腰を抜かしてましたけど。
僕らがやっているのは、芸術じゃなくて商業音楽。モーツァルトの時代は、宮廷楽士たちが王様のために演奏していた。今は、大衆というタニマチを相手に商売しなくちゃならない。
――音楽家としての原点は。
高校をドロップアウトしかけたトラウマが大きかった。70年安保で学生運動が盛り上がっていく前夜に、高校生活を送りました。超保守的な進学校で、ロン毛の生徒はみんな潰されちゃった。教員の不祥事もあって、全学ストやバリケード、一通り全部やった。勉強についていけなくなって、音楽に逃げました。追い出されるように卒業したけど、いまだに高校を出られない夢を見る。もう3年早く、あるいは3年遅く生まれていても、ミュージシャンには絶対なっていなかったと思います。
――シュガー・ベイブ時代は相当に苦しかったそうですね。
とにかく食えなかった。金がまったく無くて、実家のレジから200円くすねて電車賃にして、なんてこともあった。CM音楽、コーラスボーイ、スタジオミュージシャン……。食うためには何でもやりました。音楽ライターには「金もうけ主義」と批判されたけど、CMの仕事を年間、数十本やったことが、後々の役に立った。タイアップが来るようになったのは、あの時代、相手方に合わせる能力を身につけられたお陰です。
――1988年、「クリスマス・イブ」が大ヒット。元は竹内まりやさんのために書いた曲とか。
かみさん用につくったんですけど、ディレクターに「つまんない」と没にされ、83年に僕の曲として発表しました。冬になると枚数限定で細々と売っていましたが、88年にJR東海のCMに使われ大ヒット。キツネにつままれた感じでした。6年かけてオリコン1位になり、17年かかって200万枚売れた。僕らしいですよね。
人生で270曲ぐらいつくった中で、作詞・作曲・編曲・歌唱など、総合的に考えてベスト5に入る1曲です。息の長いミュージシャンほどベストヒット=ベストソングではないものですが、僕はベストヒット=ベストソング。非常に幸せな音楽家人生です。
ファンの癒やしに――一方、88年の「蒼氓(そうぼう)」では、「憧れや名誉はいらない」と歌っています。
1977年当時の山下達郎さん
僕の祖父は腕利きの職工で、父も工場で働いていた。そういうところで生まれ育ったから、まじめに働いている人間が一番偉いんだ、ということを歌にしました。
芸術家より職人にひかれますね。例えば米屋のおじさんがはかりを使わずに1キロの米を計量して1グラムと差がない、といったことに、とても感動する。戦後の日本社会の中で、黙って働いてきた匿名の人間のすごさを感じます。
――そしてここ数年、またタイアップが増えていますね。
ある日、スタッフに「もう山下さんの年齢ですから、今後はタイアップはあきらめて下さい」と言われました。選曲するテレビ局のプロデューサーが世代交代しているわけだから、もっともだなと。
ところが50代になってから、またオファーが増え始めた。僕の主なファン層でもある、40代を狙ったドラマやCMです。シニアな時代になったんだなと思いました。
今後はグルーブのある、おにぎやかしの曲を多くつくって、ライブで歌っていきたい。僕のヘビーユーザー世代には色々とつらい時代ですが、彼らのひとときのリラクゼーションになるような音楽をつくっていければ、と思います。
文/神庭亮介
(更新日:2012年10月16日)