藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

実はあなたがキャプテンです。

最近よく「自分の若い時の気持ち」と今の心情を比較することがある。
人間五十年♪に近づいてきたからだろうか。


あまり十代に青春を楽しまなかったからか、どうも学生時代の感情の記憶が希薄である。
意中の彼女と交換日記を始めた時(ふるっ)に、一瞬バラ色を見たくらいで、そのほかの記憶はほとんどが色褪せたり、そもそもモノクロだったりである。


そりゃそうか。
学生時代のほとんどは未成年だし、経済的にも自立していない。
いわゆる「庇護下」にあるわけで、そんな身分の者に「本当に楽しいこと」などなかなかあるものではない。
そんな中でも感じることのできる楽しみは「ある管理された環境のもと」で、それなりに自らが見つけ出すものなのだろうと思う。

どれほど大きくたって、海ではなく「湖」で船を浮かべているようなものだ。
波風はあまりたたず、本当の冒険も起こらない。

ところが。
社会に出てみると、そこは正に「荒波」というに等しい。
色んな人がそこで「本気で生活している舞台」なだけに凪あり嵐あり。

楽しいことよりは、耐えること、辛いこと、こなすこと、が多いのが普通である。

けれど、学生時代とは決定的に違うことがある。
それは「自己責任の原則」である。

独立しようと、起業しようと、公務員になろうと、サラリーマンになろうと、フリーターになろうと、世捨て人になろうと、すべては「自分の選択」である。
まあ「自分の船の船長」なのだから当たり前だけど。
ワンピースではないが"船長"という言葉の魅力は自己責任と引き換えの「限りない自由」にあるのだろうと思う。

で、何が言いたいか。
学生であれ、社会人であれ、「今の自分の環境の捉え方」というのはかなりの幅がある。
「束縛」は「保護」の裏返しかもしれないし、「自由」は「自己責任」と引き換えの状態でもあるだろう。

そこで改めて、人はとどのつまり"「自由」を一番楽しむことが出来る生き物ではないだろうか"と思うのである。
現実の選択肢では、街中の運河とか、波のない湖とか、安全に囲われた湾とか、色んな環境を選択する人はいるだろう。


だが、「気持ちのロマン」として、「大海原を海図と自らの意思」で切り開いてゆくことこそが、最高の自由と楽しさをもたらすのではないかと思う。
人の気持ちというのは「そういう風」に出来ているのではないだろうか。
一度きりの人生なら「何をも、とことん楽しむ」という貪欲さがあってもよいのではないだろうか。