藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

心のストッパー

糸井さんのエッセイより。

刃物だとか、拳銃だとか、持っているということは、
 それだけ攻撃力があるというはずなんだけど、
 同じことを相手からされるという可能性もあるわけで。

作用反作用、はニュートンの大法則だが、「時の期」はいつの時代にも平等で「どちらか一方だけが飛び道具を持つ」ということはない。
相手にも必ず「そういう道筋」があるわけで、常に「飛躍した解決策」というのはあり得ない。
にもかかわらず、自分たちはしばしば、「そういう話」に心を動かす。

先日、酒場の隣の席で「こんな儲け話がある」と投資の話をしているグループがいて、最初は「うそだろう」と言っていた人たちが、席を立つ頃には「窓口を教えて」という論調に変わっていた。

人は関心を持つと、疑問を持つ。
疑問を持つと、問うてみる。そして
一つ答えを得ると、さらに関心が増し、さらに問いが生まれる。
最終的に「答えをすべて得たら、心から信用する」
ということを無意識にしてしまうのである。

疑問を持つ、好奇心を持つ、というのはそれはとても大事なことではあるが、逆に「穴が見えなくなるきっかけ」でもあるのである。
何か他人の話に「??」と関心が向いたら「お?自分の心が揺さぶられているな」と反射的に感じるような冷静さが肝要である。

またそれさえあれば、安心して「何にでもきょろきょろ」と興味を持っても事故に遭わなくてすむだろう。
心に「待て待て」というストッパーをぜひ導入しよう。

・大昔に観たおぼえのある『仁義なき戦い』という
 映画のシリーズを、あらためて観てるのですが、
 まぁまぁ、この映画のなかで生きてる人たち、
 ほんとに大変だなぁと思いますわ。
 
 刃物だとか、拳銃だとか、持っているということは、
 それだけ攻撃力があるというはずなんだけど、
 同じことを相手からされるという可能性もあるわけで。
 だいたい、仮にですよ、
 敵陣に拳銃を持って突っ込んでいったら有利か、
 といえば、その拳銃を取られてしまったら、
 相手から撃たれることになる。
 つまり、絶対に持ってる拳銃を放しちゃだめですよね。
 それだけで、すごい緊張感があるでしょう。
 
 じぶんは傷を負わずに、その場を逃げ出せたとしても、
 いつ何どき、後ろから襲われるかわからない。
 クルマに乗るといっても、防弾ガラスにしたいですし、
 ひとりで夜道なんて歩けっこないですよね。
 
 「暴力」という「パワー」を使う道を選んだ人間は、
 その反作用としての「暴力」に警戒する必要があります。
 つまり、こっち側からの暴力には、
 あっち側からの暴力がセットでついてくるというわけで。
 おちおちできない、うかうかしてらんない。
 暴力を使うと決めた人間の自由というのは、
 相当に制限されざるを得ないということですよね。
 
 ただ、『仁義なき戦い』みたいな暴力の世界だけでなく、
 あらゆる「パワー」というものには、
 みんなそういう「作用と反作用」の
 押し合いへし合いがあるんだと、
 思ったほうがいいんじゃないでしょうかねー。
 「ぼくは頭がいい」「わしは金を持ってるど」
 「わたしは美人よ」「おいらは賢いぜ」‥‥と、
 どれもみんな暴力じゃないけれど、「パワー」です。
 その「パワー」に、ただ単に
 おとなしくひれ伏している人ばかりじゃぁない。
 反対側から、「ぼくこそ、わたしこそ」という力が、
 押し返すようにかかってくるんですよねー。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
暴力以外でも、あらゆる「武器」は取り扱い注意ですぜ。