糸井さんのエッセイより。
刃物だとか、拳銃だとか、持っているということは、
それだけ攻撃力があるというはずなんだけど、
同じことを相手からされるという可能性もあるわけで。
そう。
常に「力には大きな抵抗」がつきものである。
作用は反作用を生む。
しかも反作用は粘り強く、なかなか解消しないことも多い。
ならどうするか。
「力を使おう」とするから「力に壁を作られる」のである。
なら力を使わぬことはないか。
そう、脱力である。
そう言うと、必ず「世の中は穏健派ばかりではない」という一派が現れるものだが、そこに最大の誤解があるのではないだろうか。
たとえ、少々の被害や割を食うことがあっても「"そういう態度"を標ぼうできるかどうか」ということが遥かに重要であり、また何にも勝る第一歩なのではないだろうか。
ブドウの達人が、一見無防備であり、ぎらぎらしていないのと同様、また見識の高い人が決して知識をひけらかしたり、権威主義ではないように、「そういう振る舞いができるかどうか」ということに話の主軸を移さねば、いつまで経っても「やるかやられるか」とか「目には目を」という議論に揺さぶられて、何も建設的な話にならない。
力を抜いて、本質を考え、武装解除してゆくことが結局の目指すところではないだろうか。
・大昔に観たおぼえのある『仁義なき戦い』という
映画のシリーズを、あらためて観てるのですが、
まぁまぁ、この映画のなかで生きてる人たち、
ほんとに大変だなぁと思いますわ。
刃物だとか、拳銃だとか、持っているということは、
それだけ攻撃力があるというはずなんだけど、
同じことを相手からされるという可能性もあるわけで。
だいたい、仮にですよ、
敵陣に拳銃を持って突っ込んでいったら有利か、
といえば、その拳銃を取られてしまったら、
相手から撃たれることになる。
つまり、絶対に持ってる拳銃を放しちゃだめですよね。
それだけで、すごい緊張感があるでしょう。
じぶんは傷を負わずに、その場を逃げ出せたとしても、
いつ何どき、後ろから襲われるかわからない。
クルマに乗るといっても、防弾ガラスにしたいですし、
ひとりで夜道なんて歩けっこないですよね。
「暴力」という「パワー」を使う道を選んだ人間は、
その反作用としての「暴力」に警戒する必要があります。
つまり、こっち側からの暴力には、
あっち側からの暴力がセットでついてくるというわけで。
おちおちできない、うかうかしてらんない。
暴力を使うと決めた人間の自由というのは、
相当に制限されざるを得ないということですよね。
ただ、『仁義なき戦い』みたいな暴力の世界だけでなく、
あらゆる「パワー」というものには、
みんなそういう「作用と反作用」の
押し合いへし合いがあるんだと、
思ったほうがいいんじゃないでしょうかねー。
「ぼくは頭がいい」「わしは金を持ってるど」
「わたしは美人よ」「おいらは賢いぜ」‥‥と、
どれもみんな暴力じゃないけれど、「パワー」です。
その「パワー」に、ただ単に
おとなしくひれ伏している人ばかりじゃぁない。
反対側から、「ぼくこそ、わたしこそ」という力が、
押し返すようにかかってくるんですよねー。今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
暴力以外でも、あらゆる「武器」は取り扱い注意ですぜ。