藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

中村紘子さん

ちょっと今回のお話は「何が、なぜ起こったのか」を自分の力量では知り得ないのだけれど、それでも「音楽ってそういうことがあるものなんだ」という感動だけは伝わってくる。

日本での教育が合わず、ニューヨークに良き師を見つけるも「カルチャーショック」で天才と言われたそれまでの自身も無くし、新しい奏法を身につけながらのショパンコンクール入賞。

日本の音楽界はそれでも閉鎖的で、中村さんは「音楽そのものを嫌悪」しかねない状態にあったという。

帰国し入賞記念ツアーをしましたが、師匠に反抗して日本を飛び出したことにされていたから、会場入り口で中傷ビラをまかれたり、演奏中に客席で騒がれたり。
楽家であるためにこんな嫌な思いをするなら、もうやめてしまいたかった。

そして転機。
ショパンコンクールで共演した指揮者のロビツキー氏のアドバイスが流れを変えた。

移動の電車で、ロビツキーさんがぽつりと言うんです。「あなたはなぜ自分の才能を見つめようとしないのか」。
私の悩みが伝わったのかも知れません。「どうしたらいいんです?」と聞くと、「今夜の演奏会から、私の指揮についていらっしゃい」と。

彼に導かれてショパンのピアノ協奏曲を弾くうち、オーケストラと私の間にはただ音楽だけがある、まったく雑念のない状態が生まれた。
回を重ねるごとに、薄紙をはぐように嫌なものがなくなっていく。
66年10月、東京文化会館であった最後の公演で感じたんです。

こんなにも音楽が至上の喜びを与えてくれるとは、と。あの日、私はあらゆるものから自由になりました。

劇的である。
劇的過ぎる。

それまでの蓄積があったからこそである。
努力していない人の人生がたった一言で都合よく変わるものではないけれど、転機というのは誰にも訪れるものでもあると思う。
「それ」を逃さないようにしたいものである。
ああ。(つづく)

(人生の贈りもの)中村紘子(69):3

■レッスンに衝撃、「弾けない」
 ――1963年、ニューヨークのジュリアード音楽院で、生涯師とあおぐロジーナ・レビンさんに巡り合います
 桐朋女子高校音楽科に入学したものの、井口愛子先生と合わないと感じたこともあり、夏に留学先を探しにアメリカへ行きました。どうして自分のピアノは音がやせているのか、日本人で小柄なせいか、と悩んでいた頃でした。
 ところが、レビン先生のクラスで、私と似た体形の韓国人男性がすばらしく豊かな音で弾いた。同じ東洋人にこんな演奏ができるならこの先生から学ばなければと。全額奨学生になれたので、桐朋を中退して留学しました。
 ――留学したとたんにピアノが弾けなくなります
 カルチャーショックが大きすぎて。レビン先生は、演奏者が楽しくなければ聴き手に楽しさが伝わらないとおっしゃる。レッスンも恐ろしくない。クラシック音楽に尼僧のごとく仕えよという日本の舶来崇拝主義とは逆でした。
 レッスンでは基本ができていないと言われ、手の構えや音の出し方からやり直し。天才少女と呼ばれていたのは何だったのか、あんなに悲しくつらい思いをしてピアノを学んできたのは何だったのか、むなしくてみじめで体が動かなくなっちゃった。
 ――65年、ショパン国際ピアノコンクールで4位を受賞します
 留学で奏法を大きく変えているところでの出場は嫌でした。よく入賞できたと思います。帰国し入賞記念ツアーをしましたが、師匠に反抗して日本を飛び出したことにされていたから、会場入り口で中傷ビラをまかれたり、演奏中に客席で騒がれたり。音楽家であるためにこんな嫌な思いをするなら、もうやめてしまいたかった。
そんな時、ワルシャワフィルハーモニー交響楽団の日本ツアーに同行しました。指揮者のビトールド・ロビツキーさんとこの楽団が、ショパンコンクール本選でご一緒した縁で、独奏者に私を指名して下さったんです。
移動の電車で、ロビツキーさんがぽつりと言うんです。「あなたはなぜ自分の才能を見つめようとしないのか」。私の悩みが伝わったのかも知れません。「どうしたらいいんです?」と聞くと、「今夜の演奏会から、私の指揮についていらっしゃい」と。彼に導かれてショパンのピアノ協奏曲を弾くうち、オーケストラと私の間にはただ音楽だけがある、まったく雑念のない状態が生まれた。回を重ねるごとに、薄紙をはぐように嫌なものがなくなっていく。
 66年10月、東京文化会館であった最後の公演で感じたんです。こんなにも音楽が至上の喜びを与えてくれるとは、と。あの日、私はあらゆるものから自由になりました。(聞き手・星野学)