藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

人生の態度。

誰しも「これから起こるだろう嫌なこと」を前にしては気分が滅入るものである。
思えば、幼いころからそうだったようなことを思い出した。
「戦うか逃避か」とよく言われるがまさにそんな二択になってくるわけで、ともかく「そのまま放置」ということはあり得ない。

むしろそうした案件こそ「率先して正面から見つめなければならないこと」だということは年を取ってくると(年を取る、ということはこういうことなのだろう)経験的に分かる。
社会人と子供の差とはそういったことの集積であり、つまり生きていく上の法則というか、習わしなのである。

例えば、顧客のクレームとか、人間関係の綻びが何もせずに修復することは珍しい。
というか大きな問題に発展することもしばしばあるけれど、多くは「初動ミス」に原因があるのだ、ということとか。

不思議に「嫌なことウェルカム」という気に自分たちはなかなかならないものだけれど、そうやって改めて考えてみれば嫌なことも、嫌なことばかりではないことに気づく。(?)本当に。改めて。ふぅ。

というか「嫌なこと」にこそ良いことがある。
というか良くなる要素がそこにある。
ということは嫌なことって実はすごく良いことなのである。
ほんとうに素晴らしい。
(つづく)

(論壇時評)暗い未来 「考えないこと」こそ罪 作家・高橋源一郎
 33年前、モデルの女子大生を主人公にして、田中康夫が書いたデビュー小説『なんとなく、クリスタル』は、本文とは別に442個の注をつけて、世間を騒然とさせた〈1〉。だが、その評価は、流行のファッションや音楽にばかり目を向けた、軽薄な若者向けの作品、というものが大半だったと思う。わたしは、小説に潜む鋭い批評性に深い感銘を受け、そのことを書いた。もしかしたら、自分を「炯眼(けいがん)」と思いこんでいたのかもしれない。だが、実のところ、なにもわかってはいなかったのだ。

 後年、作者は、自分がいちばん読んでもらいたかったところに誰も気づいてはくれなかったと述懐している。

 その部分とは、小説の最後、本文が終わった後にある「出生力動向に関する特別委員会報告」と「五十五年版厚生白書」だ。そこでは、「将来人口の漸減化」と「高齢化した社会」の到来が不気味に予言されている。はかなくも美しい、都会の物語は、はるか未来の「暗闇」を前にして、より一層、輝きを増していたように、いまは思う。

    *

 では、なぜ、当時は誰もそのことを指摘しなかったのか。

 そこで予言されていた「暗い未来」は、とりあえずは、自分たちとは関係のないものに思えたからだろう。「楽しい現在」に酔いしれていたのは、登場人物ではなく、それを批判した「世間」の方だったのかもしれない。

 中央公論12月号の特集は「壊死(えし)する地方都市」。増田寛也が加わった論文〈2〉と対談〈3〉を読んでいると、誰もが暗澹(あんたん)とした思いにかられるだろう。

 いまや「人口減少」について指摘し、「高齢化」を憂える風景は、どこでも見ることができる。けれど、差し迫った現実は、想像よりもずっと恐ろしい。

 「地方が消滅する時代がやってくる。人口減少の大波は、まず地方の小規模自治体を襲い、その後、地方全体に急速に広がり、最後は凄(すさ)まじい勢いで都市部をも飲み込んでいく」〈2〉

 地方から若者たちが流出していることは誰でも知っている。残された高齢者たちの絶対数もまた減り、そのことで地方の経済はさらに苦しくなり、若者たちの大都市への流入は加速する。だが、都市に若者たちを受け入れる能力は、もうなく、「使い捨て」られる若者たちには子どもを生み育てる余裕がないのである。

 かくして「本来、田舎で子育てすべき人たちを吸い寄せて地方を消滅させるだけでなく、集まった人たちに子どもを産ませず、結果的に国全体の人口をひたすら減少させていく」。そのことを増田は、「人口のブラックホール現象」と名づけた〈3〉。

 推計によれば、100年後、この国の人口は3分の1になり、高齢人口は40%を超える〈2〉。いや、それすら希望的な数字なのかもしれないのだが。

 どうすればいいのか。増田との対話で藻谷浩介は、地方に「去る」若者にかすかな希望を託して、こういう。

 「私には二人の息子がいるのですが、大学を出て大企業に入って残業続き、という人生を歩んでほしくはない。子孫も残せず、消費されるだけの一生よりも、田舎に行って年収二〇〇万円ぐらいで農業をやっているほうが、よほど幸せだと思うのです」〈3〉

 消滅の危機に瀕(ひん)する地方も、手をこまねいているわけではない。わたしの愛読している「季刊地域」は、追い詰められた農民たちが、政府に頼らず、自らの手で「防衛・反転」する姿を克明に描いている〈4〉。熊本県山都町にある水増(みずまさり)集落では「子どもたちが帰ってこられるむら」を作るため、地元の小さな企業と組んでメガソーラー発電を始めようとしている。

 置き去りにされた地方から、若者たちに向かって差し出される手があるのだ。

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 もう一つ、「Journalism」の「ヘイトスピーチ」に関する大きな特集にも、大切なことが書かれていると感じた。

 座談会〈5〉の出席者たちは、いわゆる「在特会」の「朝鮮人は死ね」といったヘイトスピーチの主張に、かつてハンナ・アーレントユダヤ人虐殺の中心人物であったアイヒマンについて語った「凡庸な悪」を見いだす。そして、深みのない「凡庸な悪」であるからこそ、底無しに広がってゆく可能性があると指摘している。彼らは特殊なのではない。わたしたち社会の中に、彼らの考えに同調する素地があるのだ、と。

 だが、その「凡庸な悪」に染まり、世界を滅ぼそうとしているのは、「在特会」とそれを支持している人たちだけなのだろうか。

 アーレントは、アイヒマン裁判を傍聴し、彼の罪は「考えない」ことにあると結論づけた。彼は虐殺を知りながら、それが自分の仕事であるからと、それ以上のことを考えようとはしなかった。そこでは、「考えない」ことこそが罪なのである。

 わたしたちは、原子力発電の意味について、あるいは、高齢化や人口減少について考えていただろうか。そこになにか問題があることに薄々気づきながら、日々の暮らしに目を奪われ、それがどんな未来に繋(つな)がるのかを「考えない」でいたのではないだろうか。だとするなら、わたしたちもまた「凡庸な悪」の担い手のひとりなのかもしれないのだ。

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〈1〉田中康夫『なんとなく、クリスタル』(1980年発表、新装版の文庫が今月刊行)

〈2〉増田寛也+人口減少問題研究会「2040年、地方消滅。『極点社会』が到来する」(中央公論12月号)

〈3〉藻谷浩介・増田寛也 対談「やがて東京も収縮し、日本は破綻する」(同)

〈4〉特集「農家・農村は、企業とどうつきあうか」(季刊地域・15号)

〈5〉有田芳生安田浩一五野井郁夫 座談会「差別の言葉をまき散らして憎悪をかき立てる『凡庸な悪』と社会はどう向き合うべきか」(Journalism・11月号)

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 たかはし・げんいちろう 1951年生まれ。明治学院大学教授。論壇時評の前任者・東浩紀氏らとの座談会で、「想像力とは遠くのものを近くにすること」などと語った。

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 来月の「論壇時評」は19日(第3木曜)に掲載予定です。「あすを探る」は論壇委員が毎月交代で書きます。濱野さん以外の委員は小熊英二さん、酒井啓子さん、菅原琢さん、平川秀幸さん、森達也さん。「担当記者が選ぶ 注目の論点」は委員会での討議を参考にしています。「論壇委員会から」は記者たちが交代で書く編集後記です。