藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

人生を生きるコツ

来年入社の学生さんに「自分を変えるタイミングを逃すな」というような話をした。
若い人に久しぶりに話をして、ふと自分はどうよ、と。

禅寺にも行かぬから改めて「一時間以上もかけて自分を振り返る」というようなこともしなくなって久しい。
何か現実の課題とか問題に行き当たってようやく「そういえば今の仕事になってからずい分経つな」とか「なぜこういうことが起きたのだ?」と思考が対症的になっていることに気づく。

けれど身に付いている所作もあるのでは。
若い頃には「ただ生きるため、食べるため」ならその対象のことなどあまり気にならなかったものだが(商売になるなら、非合法でないなら何でも)、今はずい分違う。
その自分の関わること、についての本来的な意味とか意義とか、その将来性とか、「そもそも自分はそいつに愛情を感じるか」とかそんなことが先に立つ。
今儲かるか、とかコストがかかるか、というよりも、もう「将来を一緒に過ごせるかどうか分からない対象」と関わっていては自分の時間はあまりない、ということが本能にあるのに違いない。
それもようやく「五十年も生きてきて」という感じではあるけど。

だから体は老化しても、気持ちは寧ろ柔軟であったり、また見極めも刹那にばかり目を奪われるというのでもなく、年を取れば「それなりの選球眼」は養われて来るものかとも思う。
他方。
年と共にその権威とかプライドとか鈍重さ、とかに絡め取られるケースも多い。
とっても。
自縄自縛。
これは心の老化と言っていいだろう、もう自分自身が滅びゆく恐竜の面持ちで、周囲からは諭すべくもなく、また本人にもその気がない、ということもこれまたとても多いのである。

自分がどちらの気持ちでいられるか、というのは常に「心の軽さ」のようなものを持てるかどうか、というようことだと自分は思うけれど、年と共に「割と意識していたい」気持ちのポイントだと思った。
若者に話すことで、自分に気付きを得たのはとてもラッキーなことでした。