藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

鍛えるということ。

例えば「動機」のない若者に、ただ「体を鍛えよ」と言っても響かない。
これは体でも、心でも、習慣でも、仕事でも、何でも同じである。
「ただ苦しいこと」ととらえられることを、自分たちは無意味にはやらない。
というか「やる気」はからきし出てこないだろう。

修行僧のように「その成果」の正体も分からず、ひたすら苦しく禁欲的な修行に臨むのは、まさしく苦行である。
けれど、「その成果」がなにか明示されていて「そのニンジンのため」に努力するのはどこかあざとい。
即物的であるとも思う。


ただ「苦労が必要だ」とだけ聞かされても「何のためになるのだ?」という疑問は反射的に思い浮かぶ。
けれど、そこでそれが「何か自分のためになるのに違いない」という"カン"、もはや動物的な「勘」が働くかどうかというのはその人のセンスだろうと思う。

クダクダ口答えして、そうしたチャンスをやり過ごすのではなく。
年長者の言う、ある種の提言を「ただ素直に取り込むことができる心根」は非常に重要だと思う。

ひねくれて「反抗する力」も反力として重要なこともあろうが、自分は"素直さ"がそれに勝ると思っている。

そしてまた。自分の見る限り、(自分自身においても)
この素直さは、年とともに薄れてくる。
それは、年とともに「経験というスキル」も伴ってくる。
自我も育つ。
社会的に偉くなることもあるだろう。
何より「新しいことに次々とチャレンジする」という立場ではなくなってくる。
いろんな意味で「老いて」来るのだ。

だから老いてもなお「素直な心」はとても重要なアイテムでもある。
その人の心は老いていないのだ。

「苦労は買うてでもせよ」と年寄りは言う。
その言葉は抹香くさいが、ただし正鵠を得ている。
抹香臭さは捨ておいて、まずその言葉の真意をつかむことが、成長を志す若者には必要なことだと思う。
ジジイへの文句など、あとから幾らでも言うがいい。

師匠から鍛練を命ぜられたとき、「なぜなのだ」と思いつつも躊躇しない素直さを自らの中に作れるか。
自分を伸ばすための重要なコツだと思う。