藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

黄昏を前に。

「自分の歳を3で割ると、それが人生の時間だ」

なるほど。
うまいことを言う。
というかリアリティのある比喩だ。
30歳で午前十時。
50歳で午後五時前。
60歳で午後八時。
結構夜だ。
72歳で午前零時になってしまうが、夜はまだそれからもしばらくは続くということだろう。
(90歳まで行くと朝の六時になるし)

自分の時間を思い返して。
過ぎた時間に愚痴を言う気はないけれど。
「これから」については大いに悩みたい。
夕暮れ(つまり黄昏時か)を迎えつつこれからが、一番楽しめる時間じゃないのか、と。

午後六時前の夕方から、夜に、深夜に差し掛かる。
一日だけが自分の人生だ。
何度も言うけど過去はまあいい。
これからの数時間の過ごし方は十分考えたいと思うのだ。

もう早朝や午後一番の日差しの気分ではない。
これから充実した一晩を過ごしたいと思う。

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・「ほぼ日手帳」のなかでも複数回紹介されたから、
けっこうたくさんの人たちが覚えているかもしれません。

「自分の歳を3で割ると、それが人生の時間だ」
中学校の先生が、卒業する生徒たちに
贈った言葉だそうです。
君たちは、まだ夜明け前にいるのだと。

「ほぼ日」に届いたメールで教わったことです。
みんながそれぞれ、年齢を3で割って、なにか考えます。
30歳でも午前中です。
40歳だと午後の1時20分かな。
50歳が、午後4時40分で、
ぼくが「ほぼ日」を始めたのはこのころです。
なにかと、あせることもないか、と思いますよね。
ところが、いま、あらためてこの割り算をしてみたら、
もうじき、ぼくの時計は
夜中の11時になると気づきました。
あらま、です。あと1時間で今日の日が終わっちゃう。
若い人には勇気づけになるこの人生時計の考えは、
年寄りの覚悟を決めさせることになるのでしょうか。
そうです、それはそれでよろしい。
ぼくはそれでいいと思います。
深夜に、人が寝静まってから、
死者のように感じ、思い、彼岸からの目を見開く。
そういう時間を過ごすのがよさそうです。
つまりそれこそが、還り道の生き方でしょう。

でも、なげやりに歩いちゃだめだとも考えます。
ちゃんと目を覚ましていようと、思います。
いい加減で、どうにでもなれとか考えやすいぼくが、
どうしてそんなしっかりした人みたいなことを言うのか。
わりと、たしかな理由があります。
もっと生きるつもりで生きていたのに、
まだ6時くらいの夕暮れのうちに別れた人がいて、
その人との時間を、まだ続けていたいからです。
だから、たとえ11時でも、12時を過ぎても、
起きて目を覚ましていようと思っています。
話しかけてた、やりかけてたことの続きが、
まだまだ、たっぷりあるのですから。

今日も「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
欲深かなつもりもないのですが、まぁ、欲深かですかねぇ。