ほぼ日より。
横尾忠則さんが病院で得た体験から。
(週刊誌は)
「読みはじめたら、おもしろいんだよ。
あそこには、因果応報ということと、
自業自得という教えが書いてあるんだよ。」
構造化して、今の世俗を眺めたら「因果応報と自業自得」という二つの言葉に集約されるのかもしれない。
因果応報には、自分が何かしたら報いが来るぞ、という自戒の意味があるし。
自業自得とは、自己責任などとは違う「直接自分に返ってくる所業」という迫力がある。
何か僧侶の講話のような話だが、世の中の、特に「自分が外に対してする作為」には、必ず「自分に責任が帰結するのだ」というふうに聞こえた。
横尾忠則という芸術家が、世俗を俯瞰して「作品」として見たらそうなった。
現場にいるプレイヤーたちに、ぜひ聞いてもらいたい話だと思う。
ほぼ日刊イトイ新聞 - 昨日の「今日のダーリン」
・横尾忠則さんが病院にいる間、たいくつをしていた、と。
病院のなかでできることは少なくて、
そのうちのひとつが売店で買い物をすることだった。
たいくつしのぎに、週刊誌というものを買った、と。
「読みはじめたら、おもしろいんだよ。
あそこには、因果応報ということと、
自業自得という教えが書いてあるんだよ。」
はぁあ、そうですか、はじめて言われました、そのこと。「ああいうところに出てくる登場人物は、
因果応報とか自業自得って、思ってないんだろうね。
だから、いろいろややこしいことになるわけよ。
ぼくらは、それを読んでるのがおもしろいんだけどさ。」
こんなふうに週刊誌を語った人が、
世界広しと言えどひとりでもいたでありましょうか。
かつては、宗教的な説法やそれを通俗化したような話が、
きっとあちこちで聞かれてきたのでしょう。
「タイガーバームガーデン」の造作物やら、
文字の読めない人に向けて、ものの道理を伝え、
天の懲らしめを説くような地獄絵図も、
おそらくおおざっぱに言えば「因果応報」「自業自得」を
教えるものだったにちがいありません。
そういう、「俗世間のルールブック」が無くなった現在、
週刊誌がその役割を果たしているというわけですよね。「こういうことをすると、こういうことになるぞ!」
つまりまぁ、バチが当たるぞ、というわけです。
当たらないようだったら、「わしらが黙っちゃいない」。
「わしら」というのは、これが「マスコミ」ですかね。
大衆の代理人として、因果応報自業自得というものを、
わかっちゃいない者共に、知らしめてやりましょう、と。
そういう構造ですよね、そう言えば。
バチを当てられるような「こんなこと」の認定は、
お上でもルールブックでも個人でもなく、
「そういうもんでしょう」と「わしら」が決める。
かつて「遠野物語」を素材にして「共同幻想論」を
書いた人がいましたが、いまだったら、
週刊誌の内容を分析して、共同幻想論ができますね。
とにかくまぁ、横尾忠則さんの発想は、とてつもない。今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
思えば、ぼくらも「因果応報」を信じていると思うんです。