藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

高齢者と若者のカップリング。

松下翁の側近だった江口克彦氏の記事より

 フランスでは、老人と若者のシェアハウスがあって、老人が家賃負担をする代わりに、若者が老人の話相手をするそうだ。
こういう共同生活は理想的といえるだろう。
日本でも、このような老若共同のシェアハウスを、高齢者が積極的につくったらどうだろうか。
そうすれば、もう少しまっとうな年寄りが増えてくるように思う。

日本では近い将来、若者一人が老人一人を経済的に支える「肩車社会」になるという。
政治家は何もしないが、ただ若者の所得を食いつぶすだけでは無策と言うほかない。
中央政府は、今頃になって「地域のコミュニティのつながりを」と言うけれど、それを地域に丸投げしていては事態は深刻化するばかりだろう。

上記のフランスのシェアハウスも一案だが。

自分は「高齢者と若者と」の「ゆるい一対一のつながり」をもってはどうかと考えている。

自治体とか、町内とか、あるいはお互いの相性をコーディネーターが取り持ってもいい。
ともかく「一対一」で町内のお年寄りと若者が「ゆるい付き合い」をしてみると。

今かなりの数の中年が引きこもりになっているらしいが、行政が何かアドバイスするのも限界がある。
年寄りには経験も知恵も時間もある。
地域の当たり前の出来事として、高齢者は「若者の話し相手」であり、若者は「生活の補助者」として相手を見つけるのが最も良いのではないだろうか。
若い自分にも責任があるし、また老人も優しい目線で話ができる。
案外こんなあたりに次世代の運営のヒントがあるのではないだろうか。

50歳を過ぎたら同窓会に出席してはいけない
松下幸之助氏(パナソニック創業者)のもとで23年側近として過ごした江口克彦氏。若手ビジネスパーソン向けの連載として好評だった上司と部下の「常識・非常識」に続いて、「50歳からの同調圧力に負けない人生の送り方」について書き下ろしてもらう。第1回は「旧友を捨てる勇気」について。

■同窓会に蔓延する「病気」「死」「懐古主義」
道徳的な物言いとしては、「何歳になっても、旧友を大切にしなさい」「ふるさとの同窓会にはなるべく出席して旧交を温め、関係をつないでおきなさい」というものだろう。

 しかし、私は、60歳を過ぎたころから、小学校や中学校の同窓会にはほとんど出席しなくなった。50歳代でうんざりしたこともあり、出席する気になれないのだ。

だからこれから50代になる人たちには「50歳を過ぎたら同窓会には出ないほうがいい」とアドバイスしたい。

同窓会に行けば、たいてい病気と薬と副作用の話、そして昔話で会場が埋め尽くされる。

「最近、手術をしたんだよ」「オレはこの前、具合が悪くて病院に行ってきた」「こういう薬を飲んでいるんだ」「その薬は副作用があるみたいだぞ」ーー。こんな会話が延々と続いている。もう勘弁してほしい、というくらいだ。

 別のグループでは、「最近、墓を買ってさ」「昔は楽しかったな」「お前、彼女とつき合っていただろう?」などといった話をしている。

病気、死、懐古主義ーー。そういう実のない話で場を温めるのも、たまのことならご愛嬌でいいだろう。その後に、「明日はこんなことをやる。来年はこうしようと考えている」「家庭菜園をやっていてね。今年は茄子がよくできたから来年は……」などと、明るい前向きな話題がつながるのであればいいと思う。が、しかし、同窓会というところでは、そういう風に話がつながるようなことがほぼない。

 まして、「昨年ノーベル物理学賞をとった人の本を読んだんだけど、科学の今後についていろいろ考えさせられたんだよ」というようなことを語ろうものなら、完全に浮いてしまうだろう。

「2100年になると、日本の人口が5060万人になるというけど、そのとき、日本の行政区域は今のままでいいのだろうか」「あなたは憲法改正についてどのように考えている?」などという、教養に裏付けされたような話、未来の話、時事的な話は一切ない。


■「嫉妬」と「後悔」の話もつまらない

もう一つ、老いも若きも多いのが、「嫉妬(ジェラシー)」と「後悔」の話。とくに高齢者のジェラシーほど憐れなものなはない。そもそも人間として実にみっともない。「お前、まだ仕事をしているのか」などは、序の口。「昔から、お前は調子がいい奴だったからな」と、成功した人を皮肉ったり、有名になった友人に、意地の悪い視線を送ったりする。

あるいは、勲章をもらった仲間に、わざわざ「中学の頃は、出来が悪かったのになあ。お前が勲章か。勲章と言っても大したもんじゃあないね」などと、言わずもがなの嫌味を言ったりする様子を眺めていると、気の毒な人、負け犬の遠吠えだと憐憫さえ感じる。

 そういう人たちの集まりには、若い頃の陽気さも軽やかさもなく、不快な思いだけが心のなかに沈着する。帰路は足だけでなく心も重い。

確かに50歳を過ぎ、60歳、70歳ともなれば、人生に大きな差が出てくる。自分の人生がどのようなものか見えてくるから、仕方がないのかもしれない。だが、嫉妬と意地悪さと皮肉が渦巻くのを見ていて、気持ちのいいはずがない。

だから50歳を過ぎたら、今までの友人との縁を徐々に整理しはじめたほうがいい。70歳になったら、「古い友人」とは出来るだけ縁を切って、「新しい友人」への切り替えを完了させたいものだ。

 いつまでも古い友人と飲み会を繰り返し、クダをまき、過去を恨み、同期を妬む。おやめなさいよ。明日のない、希望のない、身の回り半径5メートル以内の話に終始すべきではない。

だいたい病気の話に終始するような旧友たちは、時代から1歩も2歩も遅れていることが多い。2025年問題も知らないし、2045年問題も知らない。ビッグデータやシンギュラリティも知らない。それでいて、毎日が退屈だとのたまう。なんとも御し難い人たちばかりだ。

 「どんなときにも過去を振り返るな」とはいわない。だが、そのような過去を振り返るような集まりの時であっても、なるべく「これからの話」をしようではないか。

私は78歳になるが、以前にも増して、若い人たちと時間を過ごすようにしている。彼らは「お金持ち」ではないが、「情報持ち」だ。会っていて面白いし、刺激的だ。若い人たちといるほうが、気持ちも前向きに明るく楽しくなってくる。

若い友人たちは、いつも、「新しいことを始めよう」「なにかにチャレンジしよう」という前向きな話をする。自然と私も未来に対して思いを馳せるようになる。

 フランスでは、老人と若者のシェアハウスがあって、老人が家賃負担をする代わりに、若者が老人の話相手をするそうだ。こういう共同生活は理想的といえるだろう。日本でも、このような老若共同のシェアハウスを、高齢者が積極的につくったらどうだろうか。そうすれば、もう少しまっとうな年寄りが増えてくるように思う。

■意図的に「友達の切り替え」をやろう

周囲が若者に変われば、50歳以上の人たちも、新しい情報を知ろう、学ぼうという意欲、よりいっそうの「生き甲斐」も湧いてくるはずだ。新しい活動への意欲も自然に出てくる。ときには、若い人たちが自分を担いでくれたりすることもあり、何歳になっても新しい経験を積んでいける。

 懐古主義の高齢者同士が一緒にいても、なにも始まらない。旧友との付き合いは本当に大切な人だけに絞って、その分だけ若者と友達になったほうがいい。その分、新しい世界が広がる。人生を、いつまでも豊かに生きられるようになる。

「友達の切り替え」は、意図的に行わなければならない。この切り替えこそが、新しいことに興味を持ってこれからを楽しんでいくための「人生の転轍機(てんてつき)」(路線変更装置)なのである。

江口 克彦 :故・松下幸之助側近