藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

カネを使わぬ日本人

日本人の金融資産は死ぬときがピークだという。


それがアメリカ人は48歳をピークにしてなだらかに暫減し、何とイタリア人にいたっては「ゼロ」だそうである。
(大前研一メルマガより)
ゼロ、というのもすごいが。

さらっと聞いていたが、そのライフスタイルの差は何か。

死ぬときに何千万残し(日本人はなんと三千万!)、というのもどうかと思うが、ゼロって「もうちょっと」長生きしたらどうやって生き延びるつもりだったのだろう、とも心配になる。
実際のイタリア人のマインドは「そのときゃ、国が面倒見てくれるさ」というものらしい。
これこそ国の信用か、楽天性か。


よく「生き金」などとも言うが、自分の収入に合った生活をし、「ちょうどよい」くらいで終息を迎える、というのはなかなかに大変なことだ。
まあ、そんなお金のことより「ソフトウェア」としての人生というか「日々の生活そのもの」を楽しむ事のほうがもっと大切なのだが。
その「日々を楽しむ」という話の底辺に「お金の問題」というのは鎮座しましているのか。

日本人の特性


あまり短くもないこれまでの自分の人生で子孫に「美田」を遺し、「よくない効果」を出してきた人をあまた見た。
が、日本人の心理というのは「奥ゆかし」遺伝子が染み付いているのだろう。
(がひょっとして、そうではなく徹底的に「国」とか「政治」というものを信用していないのかもしれぬ。でもそれなら国債など買わないか。やはり奥ゆかしのようだ。)

遺された美田はほとんどの場合、継承者に「放蕩」「甘え」を直発し、人間性をダメにしてしまうようだ。
人間、「目の前のアメ」に手を出さずに過ごすことはつくづく苦手らしい。

そんなことも予め知っておいたほうがいい。

美田、は麻薬のようなものなのだ。

病気のときにだけ使えば効果もあるが、健常時に使うと人間をダメにする。
したがって残された家族のためにも、あまり財産などないほうがよい。
ということは実は大切な家訓でもある。


もっとも成金的な金満家ではなく、格式をもって自律していく家風をもった、そんな貴族的な存在の人たちもいるのだろう。
あまり周囲には見かけないけれど。


そういうものこそ、目に見えないソフトウェア(出た)。
貴重な家訓として培われてゆくのだ、ということを知っていれば孫末代へと時間が経つにつれて、「知恵」が集積されていくことになる。

これが、大事なんである。