藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

相手の側に立つために。


「あること」を説明する。
相手が自分より頭脳明晰であれば、ことはそれほど問題ない。
だいたいこちらの程度に合わせて、「相手の理解」の方が早い、ということはよくある。
あるいは「質問」。
その質問そのもの、が「的を得ていないこと」を相手の絶妙な回答から知ることも、よくある。
(バシッと核心を突いた質問をする、というのは中々に大変なものだ。まあ最初は聞きまくるしかない←旅の恥はかき捨て、作戦という)


外人となど話してみると、母国語の半分のスピードでも相手に伝えるのは難しく、また抽象的な概念、などを会話しようとするも、困難すぎて諦めることも多い。

さらに難しいこと

そして、より難しいのは「簡潔に説明すること」である。

よく仕事などで説明を聞いても、核心部分が「まったく理解できない説明」に出くわすことがある。
よくよく問い質すと本人も、どこに重要なことがあるのか分かっていないことが判明する。
また、「問題の核心は解決していない」ことを報告したくなくて、なんとなく「量」だけを報告しているような人もいるが、困ったものだ。
そりゃ時間のムダというもの。


さて。
先日友人の子供からご質問。
「不景気ってなに?」
「ん?景気が悪くなることだよ」(←すでにアウト)
「なんで悪くなるの?悪いことしたの?景気って何?」
「(しまった)悪いことしたのじゃなくってね、えと、景気ってみんな仕事が上手くいってまあ「儲かってるな、と思う気持ち」のことかな。」
「……………………」


自分の思いを人に伝える。
ということは、「自分の解釈」を相手に伝えてみる、ということである。
結果的に伝わらなければ意味はなし。
でもその「伝えよう」とするプロセスがお互いに大事なのである。


自分では分かっていること、を相手にも同じくらい分かってもらう。
恋人であれ、家族であれ、同僚であれ。


よくよく、自分からだけではなく「相手に分かるような」コミュニケーションができれば。
男女の仲も、仕事場も家族も、ずい分摩擦はなくなるのだろうと思う。


若いうちは気付かぬが、相手には相手の「自我」がある、と思った途端に相手の世界が見えるようになる。
大人になる、とはそういう「相手の世界を見る」と言うことなのかもしれない。


湿度に煙るお盆にそんなことを思う。