藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

不安、との闘い。


先日、薬物汚染の話で特に多いいわゆる「芸能界」の人たちについて。
その原因は「不安感にある」という話にはずい分と反響をいただく。


読者の反応は、自分と思った感じとズレる、というのはむしろ少なく、「一生懸命考えたり、また熱意を持って書いた内容」にはそれなりに反応があるし、何だか自分でも何が言いたいのかすらはっきりしないような記事には反応は皆無である。


まあ文章とは正直なものか。
この不安感の話、なんかは意外な感じだった。
「私は三十路女で不安です」とか
「将来何になれるか分からないから不安」とか
「どうも塞ぎ気味で気が晴れない、と思っていたら不安が原因だった」とかいくつか共感のコメントをもらった。


それで、ふぅーむ。とまた不思議になった。

不安とは、それほど人を苛むのか。

という当たり前といえば当たり前のことなのだが。

敵の姿。


そういえばまあ当然のこと。
「相手の姿が分からない」うちには被害妄想が膨らむ。
想像はどこまでも膨らむからあり得ないような「万一」のことも怖くなって身も心も竦(すく)むのである。



敵は鬼神かもしれぬ、とか。
相手は一万人いるかも知れぬ、とか。
杞憂に踊っても仕様がない。


けど我われは「そうなりがち」なのである。
むしろそういう不安感、は臆病になり、「慎重さ」という安全をもたらす効用もあるし。
ふんぞり返ってタカを括っていては、一気に絶命しかねないし。


しかしまあ、それにしても。
例の、「7つの習慣」である。


『影響の輪と関心の輪』。
自分の進路について、ただ不安だとか、景気が良いとか悪いとか、これから何が成長するとか、ワアワア言っても始まらぬ。

自分がこれからしなきゃいけないこと、を考えてするまでである。


就活でも、転活でも、
婚活でも、離活でも、何でも同じである。

自分が関与できないネタには、いたずらに騒がぬこと。


それだけで、ぐっとハラが据わる。

雑念が消えれば、これまで見えなかったものも見えてくるものだ。


何かを不安に感じたら。
その正体を直視したいものだ。
意外に「それ」は怖くない。


自分たちは、意外に強いのだ。