藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

年とともに。


毎年、クリスマスが来て、新年へと向かう。(クリスマスにsusan boyle)
街や景色の経年変化、というのも瞬間瞬間を比べてみれば面白いものだが。
それよりも「人の心の経年変化」というのは自分自身で見ても面白いものだと気づく。
そういえば。

十代、二十代では思いもよらなかった価値観。

価値観、というよりも自分の趣味、というべきものかもしれない。


若い人が物的なものに食指を動かす、というのはまあ当たり前(ところが最近の若者はそうでなないが。。)だった。

自分の場合もご多分に洩れず。

内側も外側も自分を飾り、何にせよゴテゴテ装飾するのが「カッコいいことだ」と信じて疑わない十代。

人との競争に勝つ、とかより重いものを持つ、とかより多くの空間に影響する、とかそんなことが価値観の中心にあったと思う。

今書いてみれば浅薄だが、「時代」はそんな感覚を決して否定していなかったと思う。

年が経って。


でそれからワープすること二十年。
ぎゅん。


昔はつまらなく思ったこと。

例えば「平凡」。

例えば「安定」。

例えば「持続」。

例えば「志」。


実はそんなことがすごいのだ、と気づいたり。

そう思えば、若い人たちには煙ったがられようとも、そんなことを話し続けることは必要だ。

だって「若き大バカ者」は本当に分かっていなかったから。

けど彼らにも虚飾は通じない。
真摯に語りかけねばならない。


「より多く」

「より大きく」

「より強く」

「より広く」

「より派手に」

「より濃く」

「より明るく」

「より速く」

「より近く」

「より長く」



そんなことを無意識に追求していたように思う。

その先に何が待っているか、というようなことは念頭になかったな。



自分の二十歳のころはバブル景気、といわれ、まあみんな土地の値段とか、インフレに酔っていた。

今は就職氷河期、と言われるが自分のころは超売り手市場。

皆が複数業界に、片手以上の内定をもらって、「それでもまだ良いところがないか」とウロウロうしていた。



みっともない話である。

だが、その時代に「みっともないぞ」と言うことを語りかけてくれる人もいなかったのも事実。

いろんなことが虚飾だった、と思う。

脂が抜けると


では今思う正解は何か。

(これとて一生の正解かどうかなど分からない、のでこんなところで書いておく)

「より、ムダなく」

「より少なく」

「より狭く」

「より地味に」

「淡々と」

「普通に」


そんなことが、そんなことに価値感を置けることが何よりも重要だ、というのが今の結論。

自分の若いころにそんな話を聞いたとすれば、京都の寺の住職の諭し話、くらいである。

その時には「そう」とはとても気付けなかった。(嘆)

むしろ、その時々の「周囲の風、とか周囲の価値観」に翻弄されないことのほうが難しく、しかしそのことの方が重要なのである。

普遍的に、コンスタントに前進する存在に勝るものなどない。

またその方向を決めるのは、信念、とか志である。

「人生、長いようで、結局そんなところに行き着くぞ」


そんな言葉がどこかの誰かに届きますように。

あ。



これは昔の自分に投げかけているのだな、ということにも今気づくのである。