藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

日常には問題がいっぱい。


大人たちは、とくに子供に対しては「無垢でいてほしい」とか「社会の汚れた部分はできるだけ見せないように」という配慮をしてしまう。
R18とか、先進国では特に子供へのフィルタ作りに熱心だが、その効果はいかほどだろうか。
だから色んな制限をかけて「大人と子供の情報の壁」を作ろうとするのだが。


当の子供たちは、というとすでにこの情報化社会である。
適当に、いや相当な耳年増である。
もはや、18禁のアダルトコンテンツ、など制限など無いに等しい。
自分たちが子供のころに比べ、「入手するのが困難ゆえの手に入れる快感」は確実に薄れているだろうが、PTAの言うところの「有害コンテンツ」など、ネットにつながっていればフィルタなど如何に施しても無意味である。


そして、その割に青少年の犯罪が増えていない、という事実にこそ「いわゆる大人」たちは正対し、「子供の無垢な幻想」よりも現実を見なければならない、と思う。
彼ら(あるいは彼女ら)は、大人たちの想像以上、いや要望以上に、すでに社会のいろんな部分を見ているし、感じているだろう。


新聞のコラムに「高齢者の性」がテーマになる時代、大人たちにすらある「そんな迷いの存在」を、子供たちは十分知っているし、ゆえにそれらの存在を「完全に隠そう」という努力は無駄である。


それはともかく。

大人の思惑、異なる現実。


自分の経験でもそうだが、「大人が子供に見せたがらないもの」と「子供でも気付いていること」というのは、かなりズレている。
夫婦の不仲、とか男女のトラブル、とかお金とかしがらみとかに起因する「日常のトラブル」を大人たちは、あまり子供に伝えようとはしない。

さらに、大人特有の仕事の悩みとか、人生の躓き、とかいう「今の自分のシリアスな問題」についても、自分たちはなかなか子供には語ろうとはしない。

自分はこれは違う、と思っている。

子供らは図らずも、子供なりにその「深刻さ」を受け止めるセンサーを持っている、と思う。

その問題についての、簡潔な「解決策」はもちろん持ち合わせてはいないだろう。
だが、その大人に「相当程度の深刻な」問題が起きていること、については、こどもも同等の「雰囲気」を感じ取る力はあるように思うのである。
そのくらい、彼らのセンサーは柔軟なのである。


だから子供に
「仕事をしていて辛いことはなに?」とか
「なぜ今の仕事を選んだの?」とか
「どうして給料が上がらないの?」とか
「パパとママは仲が悪いの?」とか
「大人の人は毎日が楽しい?」とか、正面切って自らが答えにくいことも、真摯にストレートに答えることが、自分たちの責任でもある、と思っている。


またそうして答えることが、鏡に向き合うように「今の自分」を映し出すようなことでもあるだろう。
自分より若い人の放つ質問は、時にグサりと自分たちの心に突き刺さってくるものである。


だから「それ」に対峙することは、自分のためなのである。
「今、あなたは何をしているの?」という設問にも、自分なりの答えを持たねばならない。
大人とはそういうことなのだろうと思う。