藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

時間消費の感覚。


若い時。
特に十代までは「無限にある」と感じられた時間。
三十代でもそれほど意識はなかったが、四十を超えると一気に現実感が増す。
リアリティが、それまでとは大違いなのだ。


そうすると、仕事も遊びも、食事も睡眠も、趣味も、何もかもが違って見えてくる。

実はすべては「有限」なのである。

今のような仕事が続けられるのはあと何年あるだろう。
別に余生を指折り数えることはないのだけれど、「終局」から逆算すると、どうしても「残された時間」が気にかかるものである。


思えば、今でも気合を入れて「ちゃんとした夕食にしよう」という日は月に何日もない。
それは大事な友人やゲストとの食事だったり、仕事仲間ととにかく美味いものを食べる、という目的だったりと様々だけれど。
ということは、これからの人生で「気合を入れた食事」をするのはもうそんなに数多くない、ということに気付く。


同じことは仕事とか健康についてもいえる。
日中の仕事時間の過ごし方とか、休日の過ごし方とか、少なくとも「まだ若い気分で過ごせている」というのはなかなかに重大な事柄なんである。

残念ながら、すべては有限なのである。

若いということ。


中高生時代。
テストの準備に飽きて、友達と喫茶店で何時間も世間話をしたり、
当てなく鈍行列車で一人旅に出てみたり。
そういう無駄が平気で出来るのが若いということだった。
若者が「青春18切符」で旅しながら「ああ、時間がもったいない」というのはどうにもジジくさい。
で、本来は若者にとっても「有限な」はずの時間を、平気でムダ遣いてきること、それが若者の特権である。


ということは。
若者にとっても、自分のような中年にとっても実は同様に「有限」な時間を、より充実して過ごせるのは、年長者の特権ではないか。(という発想そのものがセコい、という気もするが)


ということは、自分の中学生時代と同時に比べることは不可能だけれど、多分「時間の過ごし方の有り難さ」は、三十年前の自分と今では格段に違っているはずである。
つまり三十年前の自分は、「そのこと」に気がついていないから、もうそれはメチャメチャ無駄に時間を使うことができた。
結果、相対的には今の自分の方が、時間を「うまく」使える感覚が備わっていなくてはならない。


これがまた「あと二十〜三十年後の自分」は、残り時間が少ない文、さらに時間の過ごし方にシビアになっていることだろう。

「若さ」と「時間消費の感覚」はそのような反比例の関係にあるのではないだろうか。


したがって、若者はより「年寄り感覚」に。
年長者はより「楽観的」に時間の使い方を考えることが得策だと思われる。

「残り少ない」という意識を持ちつつも、
若者のように「大らかに」時間を注ぎ込む、ような生き方。


初秋の空気が佇む朝を迎え、そんなことを想った。


季節が、静かに変わってゆく。