よく「自信がない」と若者は言う。
そうか。
でもそんなもの、誰にもないぞ。と励ます。
もっともそんな「自信」などあるのは、もはや若者ではない、とも思う。
若くないではないか、「自信のある若者」なんて。
まあそれはともかく。
自信がつけば、人はその本来の能力を発揮するという。
日本の「お稽古ごと」には古来そんな心理状態をマネジメントするような要素がある。
また「何々道」というのもそれに通ずる。
武道といえども、その「本番前」にいかに「平常心」を保つか、ということにその重きを置いている。
そう考えると、人は「その自分の心の制約」から如何に解放されるか、ということがテーマなのかもしれない。
心の裏側。
だが本当に自分に必要なのは「自信」だろうか。
自分はそれは実は「コンプレックス」ではないかと思う。
「自信」は実は虚栄ではないか。
本当に、なんの実績もなく、まったく緊張しかしないような若輩世代からのことである。
「劣等感」をきちんと「劣等感として」捕える感性が、その後の成長を決めるのではないか。
逆に、劣等感のなくなった時点で、その人は「慢心」という存在に変わる。
その時点から「陳腐化」が始まっているように思う。
いたずらに落ち込む必要はない。
けれど自分の「劣等感」は大事に自分の中に保っておくべきである。
その「劣等感の歴史」が自分の自信にいずれ繋がってくるのだと思う。
ともかく。
自分の感情に正直に、そして「それ」を記録しておくことは、将来自分を見つめ直す材料になる。
webはそんな存在の補助としても役立つのではないか。