藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

動く価値観、人生観。

日野原重明先生、「99歳・私の証 あるがまゝ行く」より
いわゆる先進国にいると、経済成長こそがその価値観の最優先指標であり、それは幸せの指標とも重なり、福利厚生とも同方向で…と考えがちだが、目立たない小国では、とっくに「そうではない」という綱領を掲げ、着実に独自の方向に政治や政策をドライブしている国も多いようである。
ガラパゴスの中にいると、なかなか周囲の変化に気づくのは容易ではない。

ブータン共和国では"家庭団欒"が国是だという。

我われは団欒、は経済的発展の先にしかない、という偏見を持っていた。(自分はどこかそんな感じだった)


けれどストレートにそういう「暖かなもの」を追求するという道も、気づけばそれほど奇異でもない。
いろんな選択肢があっていいが、それが何かカチカチに硬直した指標になっていたのが、これまでの先進国ではないだろうか。
といいつつ、欧州の歴史ある国々は、個別にみればそんな「熟成したものの考え方」も点在しているようである。


要は、周囲の熱気に気押されず、自分の軸をぶらさぬような行動の仕方が必要なのだ。
これは「今が旬、これからが旬」の若者にはぜひとも分かっていてもらいたいことである。

人間の幸せの指標
 人間は誰でも幸福でありたいと思っているものです。


自分の会社が倒産しないかどうか、定年退職後はどうなるのかなど、日本の国民の多くは生活上の不安を抱いています。そのような時に、かつてない規模の巨大地震津波が日本を襲い、原発事故も起きました。経済力だけでなく政治力までもが弱まり、人々の苦悩は歴史にないほど大きいものでしょう。いったい幸福というものはあるのかと、楽園から追い出されて右往左往しているのが、多くの人の現状ではないかと思います。


それにしても、私たちはこれまで、幸福の本質をじっくり考えてきたでしょうか。幸福に指標はあるのでしょうか。今回は、それを考えてみたいと思います。


日本はかつて国内総生産(GDP)で世界トップクラスでした。経済が豊かで文化的生活が出来るということを、国民のほとんどが幸福の指標と思っていたのです。ところがその後、日本のGDPは下がっていきました。


世界には内的な面で幸福度をはかる国があります。ブータン共和国では、「国民一人ひとりがこの国に生まれてきて良かったと感じてくれれば、私はそれを喜ぶ」という声明を1972年に国王が出し、各家庭がだんらんできる生活を重視し、国民が満足感を得られるような政策をとりました。


日本でも、大阪大大学院の筒井義郎教授が、金銭面を追究する経済学から離れて、生き方や生きがいを考慮した「行動経済学」を考えるべきだと主張しています。経済学の究極の目標は人々の幸福量にあると考えて、主観的幸福量の研究を始めたのです。


私は今年の2月、この内容をハワイであった国際健診学会の発題講演の内容としました。外的な欲望の量ではなく、内的な心の幸福感こそが重要な意義を持つと述べました。人間は裸で生まれ、裸で死ぬのだ、と。


幸福感こそが人間にとって最も大切なものだと私は思います。モノが過剰な環境では幸福への感度は鈍くなります。逆に、戦争で食糧すら乏しい時や災害で何もかも失った時には、人からいただいたわずかな物が、最高の幸福感を与えてくれるのです。