藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

思考停止のこと。

朝早くから、インターネットラジオ環境音楽で"whales"とか"peaceful forest"とかを聞いていると、ちょっと都会にいないような気分を味わいながらのブログ更新。(お手軽だ)

最近はcalm radioというのが気に入っていて、これはヴァイオリンやアコースティックギターといった楽器種別や、ハイドンやベートーベンといった作曲家別、jazzやmovieなどといったジャンル別に60チャンネル、さらに環境音楽に25チャンネルが用意されていて、順番に楽しめる。(二年契約で6000円ほど)

pcに向かって作業していたり、また本を読んでいたり、というシチュエーションで「どのような音楽が作業の能率と相性が良いか」ということをそのうち分析してみたいな、などと思っているのだがそれはともかく。

連休にして

例年連休になると「これをやるぞ」と何か決意をしてみるが、なかなか思うようには果たせない。
社会人になりたてのころは、"速読""音楽""読書5冊""英語"とかやたら詰め込もうとしたものである。
もうそうした感覚を毎年持ちながら、二十四年!(その割に変わり映えせぬ)
自分のブログなどを振り返ると、そんな気負ったエントリーもあって恥ずかしくもあるが、それもともかく。

昨年のゴールデンウィークは、珍しく何も考えずにすごし、そのまま過ぎ去った。
何をしていたのかまったく記憶がない。
さらに周囲の多くの人に聞いても同様の答えである。
理由は震災だ。
たびたび言われることだが、あまりのショックに思考が停止していたのだろう。

そうして思い返すと、大きくは先進国とか、自分の住む日本とか、引いては自分自身とか。

実は「思考停止」がこの10-20年のキーワードかもしれない、と思う。

自分たちの進む「大きな方向について」のことを考えるよりも、ただその日を暮らす。
10万人が一夜にして亡くなった東京大空襲のあとなどは、ただ暮らし、ただ復興へ向けて、そのような日々も仕方なかったろうと思う。

けれど。

バブルを機に"戦後"を完全に脱して(戦争責任の決着は着いていないようだが)、「次の寄る辺」を探して行き場を失い、「ただウロウロと」してしまったのがここ10年の自分のような気がする。

そう気づかせてくれたのは、昨年の震災だったのではあるまいか。

自分も人生で何度か覚えがあるが、精神的に強度のショックを受けると、しばらくまともな思考ができなくなる。
多分、脳の自衛本能が働くのだろう。

一方、何も考えずに「ただ流れ」をしているのは、その実、頭を悩ますこともなく、頭脳のワークとしては非常にラクである。
これを思考の怠慢というが。
その日を「ただ暮らせばいいや」と割り切ることができれば、人生の最大の悩みから逃避できる、と勘違いする。
が、逃げれば逃げるだけ、ツケは先へと送られるばかり。

この連休から、もう一度巻き直しを図らねば、などと思っている。