藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

物欲の寿命

同年代の友人数人との飲み会にて。
「倹約とか、生活苦とか、仕事の行き詰まりとか」そうした"ここ十年ほどの悩み"がなくなってきたと皆が言う。
決して誰もそれほど裕福ではなく、むしろここ数年とても苦しい、という人も多いのだが、「人生観」は明らかに変質している、と感じた。

この年になると両親の生活とか(亡くなっている人も結構多いし)、子供の将来について、就職とか結婚とか。
そうした問題に悩まされることが比較的多いのだが反面「お金さえあれば」といった問題に悩む人が少ないのには驚いた。
さらに言えば、「もっともっと贅沢がしたいのに」というような欲求に支配されている人、というのが皆無だったのである。
ここ二十年のうちに日本人の価値観が成熟してきた証なのだろうか。
それとも「永遠の経済成長を追うことに疲れた」のだろうか。


衣食足りて礼節を知るとは言うものの、「今さらに欲しいものがあるか」という問いには「老後のことも考えた"居住施設か不動産"以外には特になし」という意見が大勢を占めていた。
もう「普通に暮らして行かれれば、それがかなり幸せ」というレベルに日本人が達したのかもしれない。

こうした状態からはギラギラとした成長志向の勃興はなかなか起こらないが、しかし精神的には成熟していると思う。
日本は、図らずもここ二十年の体験を通じ、また製造業の世界レベルの競争にも疲弊し、実質的に経済成長を志向しない体質になってきた可能性があると思う。

今の現役4-50代、10-20代の若者と話していして、どうも強くそう感じるのである。
もう成長戦略の時代、ではなく「環境整備とか、安全保障とか、継続性の時代。」そんな価値観のシフトする局面に自分たちは居合わせているのかもしれない。

自分自身にしてみても、二十歳の時の価値観と現在を比べてみれば、それはただ年齢を重ねたというたけではない「時代の移り変わり」を感じてしまう。

そしてまた、この先、我われは「将来への不安を取り除くシステム」を構築できたその時に、また違う「次の価値観の時代」に突入するにちがいない。

自分たちの価値観、文明観は、静かにしかし確実に熟成している。
本当の「持続可能性」を人間は必ず考えて行動できるようになるのではないだろうか。