藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

今の自分を見ること。

ほぼ日より。
過去、現在、未来。
過去は見ることができる。
現在は現在だ。(見えているかどうかは別の話だ)
未来は見えないが、想像することはできる。
(想像しないこともある。)

はて。
自分という生き物は、過去から現在までを割と「直線的」に生きているつもりでいる。
毎日寝て起きて…だから連続している実感がある。
けれど、けれど。

「今の自分」を想像できた「過去の自分」はいない。
まさか今の自分が「こんな自分」だなんて思わなかった。

まあ、それほど「大した自分」ではないだろうけれど、それにしても「今の自分」はもともと「意図した自分」なのか、それとも「意外」あるいは「不本意」な自分なのか。
それほど「今の自分」って"成り行きな感じ"が強い。
もう少し、「ご利用は計画的に」という風にはいかなかっただろうか。(嘆)
(つづく)

未来から、現在を見るということは、
 ほんとうはできない、ということは知ってる。
 いつも、ぼくらは現在にしかいられないのだから。
 過去から現在を見ることも、もちろんできない。
 ぼくらはもう、過去にはいないのだから。
 (そして、ややこしくなるけれど、
 現在から現在を見るというのも、
 なんだかほんとうはできないような気がする。
 でも、めんどうだからそれは考えないようにしよう)。

しかし、過去から現在を見ている人はいくらでもいる。

 過去のデータを集めて、その上に立って、
 現在を見たり未来を見ようとする人たちは多い。
 いやいや、そんなマーケティングの話ばかりじゃないよ。
 じぶんの息子を、ずっと10歳くらいのときのままだと
 思いこんで見続けている親とか、
 若い後輩のやっていることを、いつまでも、
 じぶんより劣っていると思いながら見ている先輩とかも、
 けっこう危ういことしてると思うんだよね。

ぼくは、いつごろからか、イメージとしてだけれど、
 「未来のその先」みたいなところに、
 じぶんを立たせて、現在という「こっち」や、
 近い未来というものを見るようなことをしている。
 ただの趣味的なイメージの遊びだと思ってくれればいい。

例えば、渋谷のスクランブル交差点のようなところを、
 これはずいぶん昔の景色だと思いながら見るのだ。
 未来の先に立っているじぶんが、
 過去の、つまり2016年の渋谷を見ている。
 そう思ったら、ずいぶん景色が妙なものに見えてくる。
 じぶん自身のことでも、この先の老後、の先の、
 「死んじゃったじぶん」がこっちを見ていると想像する。
 仕事も同じように、ずっと先に立ってこっちを見てみる。
 で、過去としての現在を、やさしく観察するわけだ。
 「まだこんなことやってたっけなぁ」と感じるんだよね。
 こっちから、なにかを積んでいってあっちに行くよりも、
 あっち側からの目で、こどもを見るよう現在を見る。
 これ、ぼくにはずいぶんおもしろい遊びになっている。
 コツをつかむと、けっこうできるようになると思うよ。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
夢を持つのではなくて、「夢になる」ということなのかな。