メディアというものは新しければ新しいほど速報性が上がり、刊行間隔が密になると何となく思いこんでいる。
情報が瞬時に手元に届くようになる。
と、その鮮度に自分たちは喜ぶ。
「新しければ新しいほどいいのか」ということを自分たちはよくよく問い直さなければならないのではないか。
「遅効性」と門井さんは言う。
日刊紙なら1日間、月刊誌なら1か月間、じわじわ心にききつづける情報そのものの底力とでも定義すべきか。
新しく、刺激的なニュースにほど、自分たちは反応し、また忘却する。
日本では「金曜日にニュースにすれば、翌週は静かになる」などとも言われる。
勤めよ発し手、励めよ受け手。
またどこかでお会いしましょう。
ニュースに対するリテラシーこそが、ポピュリズム、と揶揄されないための自分たちの基礎能力なのに違いない。
ネットゲーム同様、「刺激に翻弄されない姿勢」はいよいよ重要な態度になっていると思う。
毒になれ、薬になれ 門井慶喜
2017/6/30付
新聞はほろびた。いちいち紙に印刷するなど手間がかかって仕方がないし、1日に1度、夕刊を入れても2度しか発行しないのでは、むかしよりも遥(はる)かに忙しくなった世の中の動きに対応できないのである。
というような議論は、じつは明治時代からあった。新聞人のほうも気になったのだろう。これはおそらく明治11年(1878年)のことと思うが、「東京日日新聞」の主筆兼社長・福地桜痴(おうち)は、エジソンが発明したばかりの錫箔(すずはく)式蓄音機の実験に立ち会って、
「何でも吹きこんでください。機械がしゃべり直します」
と言われて吹きこんだのが、
「こんな機械ができたら新聞屋はこまる」
この当時、彼の新聞は価格も部数も日本随一、まさしく衰亡とは正反対の情況にあったのにである。
その後の歴史は、もちろん蓄音機どころではなかった。大正14年(1925年)にはラジオが、昭和28年(53年)にはテレビがそれぞれ放送を開始したし、平成に入るとインターネットが普及した。そのたび紙の新聞は「時代おくれ」の烙印(らくいん)を押しなおされ、その刊行間隔のまばらさを非難されたわけだ。
そうして結局ほろびていない。どうしてなのか……とふしぎに思うとき、私たちは、じつは固定観念にとらわれている。
メディアというものは新しければ新しいほど速報性が上がり、刊行間隔が密になると何となく思いこんでいる。けれどもこれは通信技術の発達に目をうばわれた単純な発展段階説にすぎないので、実際の歴史は、新聞とラジオのあいだに月刊のいわゆる総合雑誌がある。テレビとインターネットのあいだに週刊誌の爆発的な普及がある。
前者の代表はさしあたり吉野作造らが大正デモクラシーを鼓吹した「中央公論」であり、後者の代表は扇谷正造(おうぎやしょうぞう)編集長が百万にまで部数をのばした「週刊朝日」あたりだろうか。もしも速報性が唯一至高の価値ならば、どちらも生まれた瞬間、死んでいたにちがいないのだ。
してみると速報性というのは、メディアの本質的な価値とは案外、関係がうすいのかもしれない。
少なくとも正比例の関係にはない。むろん重大な事件が発生した場合はべつである。さまざまな自然災害はもちろんのこと、純粋な人災に徴しても、昭和20年8月のあの日、私たちの多くが敗戦という天下分け目の情報を得たのはラジオという当時最速のメディアでだった。
あの蓄音機の実験に立ち会った福地桜痴の危惧はここで現実となったわけだが、しかし一国の情報全体を均(なら)して見れば、私たちは速報性のほかにもうひとつ、遅効性も重視していいように思う。遅効性などと言うと何だか毒や薬みたいだけれど、もともと毒にも薬にもならない情報は何の意味もない。日刊紙なら1日間、月刊誌なら1か月間、じわじわ心にききつづける情報そのものの底力とでも定義すべきか。
「急がば回れ」ではないけれど、あんまり忙しすぎる時代には、こういう逆張りに出るほうがむしろ早く成果が出るかというのがこの6か月間、不要不急の歴史ばなしを書いてきた私のまあ言い訳めいた結語である。勤めよ発し手、励めよ受け手。またどこかでお会いしましょう。