藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

過ごす場所の価値。

仕事が引けても帰宅せず、ファミレスや居酒屋で数時間を過ごす「家族持ち」が増えているという。
家に帰れば同居する家族がいて「ぼーっと」することが叶わないのだろう。
そんな話をしていた居酒屋でのこと。

「だからもう一人暮らしがやめられないのよね」という女性三人組。

皆彼氏がいるのだが、決して同居はしないのだそうだ。
「だから同棲とか結婚とかは、ちょっとねー。」

そう。
家族やパートナーといる楽しさvs一人暮らしの気楽さ。
相当グラグラくるテーマなんである。

富や権力を得た人が最後に望むものは"自由"だ、というようなテーマの作品も多い。
(尤も一番大事なのは家族だった、というのもよくあるが)

どちらを望み、優先して、できれば両方の楽しみを見つけたいものだ。
案外と両立の工夫はできるのではないだろうか。

校外学習の頃 阿古真理
 「常連」という言葉を知ったのは、いつだったか。憧れていたその立場は、なんと高校時代に手に入った。

 バレー部の仲間がある日、「ステキな喫茶店があるの」と連れて行ってくれたのが、足を踏み入れた最初。学校帰りに喫茶店へ寄るのは校則違反だったが、もう時効だろう。

 彼女がステキと言っていたのは、二重になったパフェのグラスの底にドライアイスを入れて煙を出し、花火を挿してキラキラと火花を出させるサービスだった。

 煙と花火に魅了された私たちが次に気づいたのは、アルバイトのお兄さんたちがかっこいいことだった。大学生の彼らと話すのが楽しくて、部活休みの日は、喜多郎というその店にたむろするようになっていた。

 同じキャンパスにある女子大に進んだ私たちは、店に堂々と出入りするようになり、お兄さんたちの1人が「かわいいから」とスカウトしてスタッフになった、同い年のTちゃんとも仲良くなった。

 彼女のことを「騙(だま)されてスタッフになった」と私たちが言い合ったのは、大げさではない。何しろ、喜多郎はバイト料がほとんど出ないのだ。ランチタイム以外ガラガラの店は、結局一度も会えなかった「マスター」に家賃だけ払い、大学生たちで切り盛りしていた。駅前の繁華街からわずかに外れるだけで、フリの客が入らないという飲食店の立地の難しさを、私たちは10代で知った。

 バブル景気のあの頃、スタッフの中には、「大学生」の肩書で「ビジネス」をするため、わざと留年を続ける人、競馬に興じる人、女の子をナンパする話ばかり楽しそうにする人などがいた。ルックスがよかったからか、みんな根はいい人たちだったからか、何を言われてもかっこよく思えたし、彼らの話を聞くのが楽しかった。

 常連には、ロマンスグレーの男性もいた。その人は、店にコーヒーなどを卸す食品メーカーの支店長で、午後中煙草(たばこ)をくゆらしながらカウンター席に座っていて、「わしが(職場に)いないほうが、みんな仕事しやすいんや」とのたまっていた。

 やがてお兄さんたちは、就職していき、「スタッフが足りないの」とTちゃんに涙目で口説かれた私も店に入った。給料は想像以上に安く、時給100円ぐらいにしかならなかった。これはもう、バイトではなくサークル活動である。

 結局、喜多郎は私が大学3回生のときに閉まることになり、スタッフと常連が集まってお別れパーティを開いて解散した。その頃には地元の公立高校の男の子がスタッフに入り、女の子たちが常連になっていた。彼らも校則は大丈夫だったのだろうか。思えば牧歌的な時代だった。

 私はその頃、もう店に興味を失っており、その後に控える社会人生活へと気持ちが向かっていた。店の終わりは特に感慨をもたらさなかったが、同級生の女の子たちとは、その後も長く付き合った。

 10年間同じ女子校という温室に育った私にとって、喜多郎で出会う誰もが新鮮で、憧れの対象だった。出会った人たち、お金にならなくても楽しい仕事をした経験、何よりただダラダラと過ごして許される居場所を持てたことが、貴重な財産だったと気づいたのはずいぶん後だ。

 30歳で上京し、孤独を知った私は、第二の喜多郎を求める放浪期間に突入していた。

(生活史研究家)