藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

他人ならば見えている。

自分の可能性に気付いていない。

つまり最も「ちゃんと周囲が見えずに閉塞している」のが自分。

日野原重明さんが100歳になってからも「次の十年」とおっしゃっていたのは、実は冷静に自分が見えていたということなのだろう。

自分がこれからやれるであろう能力のこととか、
機会とか。
可能性とか。
勝手に「たいしたことないだろう」というのは自分の心の中にある"諦め"の部分だ。
悪くない。

けれど100歳の人だって可能性にあふれていたという事実。
これを若者は「重く受け止め」ねばならない。

若者は、お金や権力はないかもしれないけれど「可能性」の塊でもある。

可能性というキーワードでだけは、必ず優れているのだ。
「どんな職業に就こうか」とか
「どんな異性と付き合うか」とか
キャリアパスは」とか
「老後の年金は」とか。
ぜーんぶそんなのは「これからのこと」なのだ。

だから事前にくよくよする必要はまるでない。
くよくよして「ただ座して」いるのが一番もったいない。
どんなアルバイトも、勉強も、旅も趣味も。
およそ無制限だ。

「何をしていいかわからない」というのと「何だったやっていい」というのは実は同じことなのだ。

翻って。
五十を過ぎた自分だって、まだ「何だってやっていい」ということに気づく。
友人と語り合って、そんな学生さんのような気分になった。
勝手に自分で「重い足取り」にしてしまうのはもったいないことである。