藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

欲望のないのが不幸か。

人は「自分のこと」を考えることができる。
多分、昆虫はそういうことを考えてはいない。

「足るを知る」のが幸せか。
それとも足らぬを求めるのが自然なのか。

そもそもの幸せの定義が二転三転する。

欲望を無くせと言うのは無理な話だ。第一、自分の幸せのために欲を無くすというのも、また欲望なわけだし。
だから欲望とは付き合っていかないといけない。寂しいとか、悲しいって思うのもやっぱり欲望があるからで、欲望が無ければ人と会いたいとも思わないし、悲しさを感じない人間がどうやって他人の悲しみに寄り添えるだろう。悲しいのも寂しいのも不幸じゃない。不幸も不幸じゃない。辛いことも幸せってことなんだろうか

悲しみも寂しさも「不幸じゃない」。
つまりは「欲望がなくなったら」人は「不幸」に入るのかもしれない。

まあ、こんなことをウダウダ考えることが出来るほど余裕のある生活をしている僕は充分に幸せなんだろうと思う。でもそれも、「こんなこと考える暇も余裕もない人も居る。そういう人と比べて俺は幸せだ」ってことだから、それも違う気がする。誰かの状況と、自分の状況を比べて、順位を決めるような事をしていたら一位にならないと幸せになれない。幸せになろうと思わないのが、幸せになる方法なのかな。考えない方がいいのだろうか。

幸せのあれこれ 前田司郎
三十年かけて幸せについて考えて、残り三十年かけて実践しようと、三十歳の時に決めた。九十歳まで図々(ずうずう)しく生きる予定で。そして今年で四十一歳になった。十一年間、幸せについてぼんやり考えてきたけど、未(いま)だに全然判(わか)らない。

三十歳から六十歳までは考えるだけの期間と決めた。でも考えるだけじゃどうしようもなくてやっぱり実践してみないことには実体が見えてこない。例えば「誰かと一緒に暮らした方が幸せなんじゃないか?」と思っても、一緒に暮らす誰かが居ないんじゃ仕方ない。
◎ ◎ ◎

そんなわけで、ほとんどの思索はただの思索で終わってしまうし、この十一年で思ったのは、どうやら幸せっていうのは状況ではなく、ずっと続くことはないんじゃないかということくらいだ。
どうも幸せはある種の刺激みたいで、同じ刺激を受け続けても飽きてしまう。谷があるから山がある、ずっと山だったらそれは平地だ。当たり前だよね。でも、その理屈だと、悲しみがあるから、幸せがあるのであって、その二つは地続きで、悲しみも幸せの一種と言えないこともない。
それに幸せの反対が悲しみなのかどうかも怪しい。寂しさもある。憂いとか、怒りとか。そういう負の感情、感覚が全てない状態が幸せなんだろうか。そんな状態あるのか? 忘れちゃうことはあっても、無くなることはないような気がする。じゃあ幸せはない?
美味(おい)しいご飯を食べて幸せ、とか、知らない猫が寄ってきて幸せとか、好きな子が笑ってくれて幸せとか、そういう自分の外で起こったことが不意に持ってきてくれる幸せって言うのは、きっとあると思う。そして例えば悲しさとか寂しさと共存できる。じゃあ逆に幸せが入り込めないような時ってなんだろう。そんなの、不幸としか言いようがない。そう、幸せが入り込めないのが不幸なんだろう。幸せの反対はやっぱり不幸だ。
不幸の只中(ただなか)に居る時は、いくら飯が美味(うま)かろうが、猫が寄ってこようが、誰かが笑っていようが、心が動かない。でも幸いなことに人はそういう状況にも飽きるのだろう。ある悲劇的な出来事が起こって、不幸に陥っても、ずっと不幸ではいられない。ずっと幸せでいられないのと一緒で。でもじゃあ、その悲劇的な出来事がずっと起き続けたらどうだろう。それはありえる。不運がつづくこともあるだろうし、ずっと保存される悲しみもあるだろう、病気のように付き合っていかないといけない悲劇もある。悲しい状況がずっと側にいることはある。
◎ ◎ ◎

僕は芝居を作る。悲劇も喜劇も作るけど、これは悲劇です、これは喜劇です、と思って作ったことは無い。悲劇は喜劇でもあるし、逆も然(しか)りだし、見る人の立場や思想によっても変わるし、そう、だから、悲劇が起きたら、自分の立場を変え、考え方を変え、それを喜劇にしてしまったらどうだろう?
はいはい。理屈は判る。でも悲劇の主人公はやっぱり悲劇の只中に居るのだ。観客がそれを喜劇とみることは出来(でき)ても、登場人物には出来ない。それをやっちゃうと芝居はつまらなくなりますね。主人公が自分を客体化して、悲劇の中に喜劇をみせようとするなんて。
全く、結論めいたことが一切出てこない。暫定的にも結論は出ていないのだ。幸せになるってことが、幸せを持続させることだとすると、どうしたらいいか全然判らない。
今の状態で幸せだと確信すること、常に現状に満足することができれば幸せは持続可能かも知(し)れない。どんなことにも満足を見出し、それ以上望まないこと。それは欲を無くすってことで、欲を無くすことで足るを知り幸せに至るなんて、先人と同じような答えに行き着くわけだけど、もし仮に欲を無くすことが出来たら、僕は書けないし、下手すると食べたいとも思わないのだから、死んじゃう。
生命維持に必要な欲だけ残して後は捨てろって事だとしても、生きて行くのにギリギリの量のご飯だけ食べていれば体力も落ちるだろうし、そうなるともう少しだけ多めに食べて力をつけないと、明日のご飯が手に入らないかもしれないぞ、となればもっとご飯が欲しいという欲望に繋(つな)がるわけで、火は完全に鎮火しなければ、いつでも大きく育つのだろう。欲望を無くせと言うのは無理な話だ。第一、自分の幸せのために欲を無くすというのも、また欲望なわけだし。
だから欲望とは付き合っていかないといけない。寂しいとか、悲しいって思うのもやっぱり欲望があるからで、欲望が無ければ人と会いたいとも思わないし、悲しさを感じない人間がどうやって他人の悲しみに寄り添えるだろう。悲しいのも寂しいのも不幸じゃない。不幸も不幸じゃない。辛いことも幸せってことなんだろうか。
◎ ◎ ◎

まあ、こんなことをウダウダ考えることが出来るほど余裕のある生活をしている僕は充分に幸せなんだろうと思う。でもそれも、「こんなこと考える暇も余裕もない人も居る。そういう人と比べて俺は幸せだ」ってことだから、それも違う気がする。誰かの状況と、自分の状況を比べて、順位を決めるような事をしていたら一位にならないと幸せになれない。幸せになろうと思わないのが、幸せになる方法なのかな。考えない方がいいのだろうか。
まえだ・しろう 1977年東京生まれ。劇作家、作家、映画監督。戯曲「生きてるものはいないのか」で岸田國士賞。「夏の水の半魚人」で三島由紀夫賞
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